ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲:微睡みの中の幻を

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海~ドビュッシー:管弦楽曲集

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲


フランス象徴派を代表する詩人ステファヌ・マラルメの同名の詩、詩の世界では『半獣神の午後』と呼ばれるが、その詩を基にドビュッシーが作曲した管弦楽曲。
詩を忠実に描写するよりは、マラルメの詩の背景となり、言葉の持つ響き、ニュアンス、輝きを音楽にした、という方が正しい。
ドビュッシーが印象派音楽に着手しだした頃の作品であり、かの指揮者・作曲家のブーレーズは「『牧神』のフルート、『雲』のイングリッシュ・ホルン以来、音楽の息づかいが変わった」と述べている。
フルートの(それも音程の取りづらいところの)半音階によるソロから始まるこの曲は、その微妙な調子を絶やすことなく、聴く者を混沌と心地よい夢に誘う、ドビュッシーの管弦楽作品中、一、二を争う名曲に思う。


半獣神の牧神が、真夏の昼下がり、夢と現実の狭間で笛を吹き、水浴びしていたニンフ(妖精)たちと遊ぶ。
彼女らを追い、腕の中に抱え、牧神は様々な夢と欲望を巡らせているうち、ニンフは消え、牧神は再びまどろみ始める、という内容である。
ドビュッシーは、かなり自由に、しかし詩の持つ雰囲気をそっくり残して、マラルメの世界を音楽にしている。
はっきりしない旋律に途切れるリズム、不協和と協和を行き来するハーモニー。実に物憂い。
僕がこの曲を好きな理由は、気怠く、物憂い音楽の中に、ドビュッシーの作品のどれにも勝るような、官能的な、恍惚とした気分を与えるものを携えているからである。
それを作っているものは、もちろん「印象派」が「印象派」である由縁のところのもの、それも1つである。
だが、不協和であったり、消えたり現れたりする旋律ではあるが、そこには「印象派」という自由な意味の音楽の枠を越える、ドビュッシーの精緻な音楽構成が見える。
動機と動機の、主題と主題の、機微にして綿密な連絡が作り上げる感情の起伏と全体の調和こそ、ドビュッシーの芸術の極みなのではないだろうか。
とはいえ、もちろん、そんな細かいことを気にして聴くわけではない。
この曲が奏でる、ドビュッシーの管弦楽ならではの楽器群の響きは、有無を言わさぬ美しさがある。
特に終盤、サンバル・アンティークの輝く音の結晶、牧神のフルート、ハープ、ピチカート、もう何も言うことはない。
全身を音楽に委ね、牧神の見る夢に心を重ね、快楽と欲望を光の中の戯れに解放するのが、最高の聴き方だろう。

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