モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8番・第10番・第11番《トルコ行進曲付》、幻想曲ニ短調K397


モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330


人生いつどこで、どんなきっかけで曲の魅力に気付くのかなんてわからないものだ。
今までも何度となくモーツァルトのソナタ第10番K.330を聴いたことはあったが、録音で聴いただけで実演は未経験だった。しかし1月のガヴリリュクのリサイタルで、初めて実演に触れ、それはそれは驚くほどの演奏に、この曲はこんなに素晴らしい曲だったのかと改めて思い知らされた。


この第10番や有名なトルコ行進曲付きの第11番を含む、第10~13番(K.330~333)の4曲は、ずいぶんと長い間、1778年にモーツァルトがパリ滞在時に作曲したものだと思われてきた。19世紀~20世紀初頭のフランスの学者テオドール・ド・ウィゼワとジェルジョ・ド・サン・フォアは、年代学研究を通して作曲時期は1778年の7月から9月だと推定した。当時のモーツァルト研究の権威アルフレート・アインシュタインも同意している。
これはモーツァルトの母の死の翌年にあたる。最愛の母を亡くし悲嘆に暮れていた直後の1778年に書かれた第8番のソナタは珍しく短調のソナタだが、第10番は明るいハ長調である。「あの悲痛なソナタ第8番が生まれるのは納得だが、このあっけらかんと明るいハ長調ソナタも?」と思った人は当時も多かったことだろう。


1970年代の研究で、この4曲がパリで書かれたのは間違いだと判明する。ヴォルフガング・プラートによるモーツァルトの筆跡研究では、第10番は1780年代初頭に書かれたものだと明らかになった。
また、アラン・タイソンは自筆譜の紙質を研究し、これら4曲はモーツァルトが他に使うことのなかった独特な紙に書かれていると発表した。パリで書かれた楽譜、例えばソナタ第8番K.310やパリ交響曲K.297で使われたフランス製の紙とは違うタイプのものだったそうだ。
モーツァルトはパリから帰った後ウィーンに定住するが、第10~12番(K.330~332)はウィーンではなく、1783年、モーツァルトが妻コンスタンツェと共に父の住むザルツブルクに帰省した夏から秋にかけて作曲されたのではないかとタイソンは主張した。住んでいるウィーンでなくて帰省先のザルツブルクだと、どうしてそんなことまでわかるのかと驚いてしまうが、これはどうやら、用いられた紙が当時ザルツブルクで使われた10段の五線譜だからだそうで、モーツァルトがウィーンで普段使っていたのは12段の五線譜だからだとのこと。いやはや、紙の研究、恐るべし。第13番K.333はまた別の紙で、帰省途中のリンツで書かれたものではないかとしている。


ということで現在のところ第10番は1783年7月から10月に作曲されたとする説が主流だ。タイソンは、おそらくモーツァルトはウィーンにいる生徒たちのためにこの曲を書いたのではないかと述べる。というのは、普段モーツァルトがピアノ曲で使うことのないハ音記号などが使われており、指導のためにわざと使って書いたのではないかと考えられるからだそうだ。難易度もそれほど譜読みに苦労するような曲ではないし、初学者でも十分弾くことは可能だ。3楽章構成で14分程。


しかし、ある意味パッパラパーな明るさを持ったこのソナタを魅力的に演奏するのはまた別の困難さがある。名ピアニストたちによる多くの録音が残っているが、当然70年代以前の録音では、この曲はパリ時代に書かれたというのが通説であり、突き抜けて明るく弾くのを躊躇したピアニストもいたことだろう。そんな中で、1956年にもかかわらず飛び抜けて明るく弾いてくれたリリー・クラウスには敬意を表したい。まあ演奏の話は後日にして、もう少しこの曲の紹介をして本文をまとめよう。

 

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スパーキーと魔法のピアノ

第1楽章アレグロ・モデラート、冒頭はシンプルで洗練されたフレーズなだけに、凡庸であれば素通りしてしまうところだが、クリティカルヒットすればどこまでもハマるハマる。第一印象は大事と言うのは本当で、そういう演奏に出会えればその僥倖はひとしおだろう。聴いてみればわかる通り、構造的には、確かにパリで書かれた第8番の第1楽章と非常に近いものがある。これはパリ時代に書かれたというのが通説だったのも肯ける。第2楽章アンダンテ・カンタービレは、まるでオーケストラで演奏をしても似合ってしまいそうな、モーツァルトらしい温もりと音響的な拡がりを感じる、実に美しい緩徐楽章。第3楽章アレグレット、これは4分の2拍子で少し奇を衒ったような雰囲気の主題から始まる。この主題がさながらピアノ協奏曲のように、ソロパートとトゥッティで交互に演奏しているかのように展開する。つい先日イタリア協奏曲の記事でも似たようなことに言及したが、この曲もピアノを超えた表現可能性を感じる作品だ。そうでありながら、各楽章ともやや長い二部構成を採択し、わかりやすく秩序立てられたフレージングといった特徴も、モーツァルトが生徒用に作曲したという教育的理由を裏付けるものとして挙げられるだろう。
果たしてこの曲、いかほどの知名度なのだろう。第8番は数少ない短調の作品だし、第11番は言わずもがなトルコ行進曲付きとして広く知られている。演奏機会は少なくないと思うが、日本では第9番と並んで、それほど有名な作品としては数えられていないのではないか。
欧米では、第10番は子ども向け音楽教育アニメ“Sparky’s Magic Piano”(邦題「スパーキーと魔法のピアノ」)で用いられ、一躍有名曲となったらしい。1989年に出た日本語吹き替え版は今や入手困難のようだが、声の出演に浪川大輔・吉田理保子となかなかの豪華さである。子ども向けにしても良いし、大人ももちろん楽しめる、モーツァルトはそういう曲が豊富で本当に素晴らしい。


【参考】
Irving, J., Mozart’s Piano Sonatas: Contexts, Sources, Style, Cambridge University Press, 1997.
Keefe, S.P., Mozart in Vienna: The Final Decade, Cambridge University Press, 2017.
Kinderman, W., Mozart’s Piano Music, Oxford University Press, 2006.
Tyson, A., Mozart: Studies of the Autograph Scores, Cambridge, MA: Harvard University Press, 1987.

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