マーラー:交響曲第4番


マーラー 交響曲第4番 ト長調


クセの強いオタクが多く、そこら中で書かれているマーラーやショスタコーヴィチやブルックナーはあまり取り上げたくない。もう素人には書くことがないくらい既出なんじゃないかと。下手なことは書けないしね。
なのでマーラーはまだブログを始めたばかりの若かりし頃、2008年に1番2009年に8番の記事を書いてから暫く敬遠しているのだけど、実は最近、結構4番を聴いているので、ここらで一つ解禁としよう。


1899年から1900年という時代の節目、ウィーンで活躍するようになったマーラーが、アルタウッセやマイアーニックといった湖畔の保養地で過ごしていた時期に作曲した。それもあってか、マーラーにしては軽快でシンプルさもあり、他の番号と比較しても幸福感をやや多めに盛った曲である。
時代も節目なら作風もそうで、交響曲第2番、第3番という合唱付き大編成と、第5番,第6番,第7番という器楽のみ編成の中間に位置する第4番は、オーケストラとソプラノ独唱という風変わりな編成。ソプラノは4楽章のみで登場し、歌曲集「子供の魔法の角笛」の「天上の生活」がそのまま転用され、喜びに満ちた天国の世界が歌われる。
人の声が交響曲のフィナーレにあるにもかかわらず、合唱でグランドフィナーレ!という方向性ではなく、独唱で静かに終わるのがマーラーらしい伝統への対抗心というか、皮肉っぽいところである。
要はこの曲は、「交響曲」というジャンルの歴史における、パロディのようなポジションなのだ。少し説明しよう。
音楽学者マーク・エヴァン・ボンズは「交響曲は音の響きという領域を超えて全てを包括する宇宙的広がりを持つドラマだ」と言った。そういう世界観の交響曲の頂点がベートーヴェンの第九であり、ワーグナーは第九を「純粋な器楽による交響曲の限界を意味する」とし、「ベートーヴェン以降は何をやっても模倣になる」と指摘している。
ベルリオーズやリストが「模倣?上等だ」的なスタンスで交響曲を書いたのと似たように、マーラーもまた第九のような合唱付きを2番3番と立て続けに書いた。編成でもドラマという観点でもベートーヴェン以上に交響曲を半ば無理やり拡大させたのだが、第4番では今度は、皮肉を散りばめつつ歴史の流れに回れ右をして、伝統的な1~3楽章の後に小綺麗な歌付きフィナーレで、人類愛を熱唱するのではなく天国の話をして消えるという、盛大な肩透かしをしているのだ。
伝わりやすい美しさを持ち、かつ皮肉っぽい……そういう雰囲気が僕は好きなのである。僕は以前、意外とプロコフィエフ好きなんだよなと書いたが、それに近い。


まず1900年の交響曲と考えて、1楽章の頭から鈴が鳴っているのもおかしい。アドルノは「道化の鈴」と呼んだ。彼はまたこの楽章のフルートのパッセージに「夢のオカリナ」と名付けている。パーセルのトランペット・チューン(「麺達はまるで生麺」のCMでおなじみ)を思わせる天国のラッパもかわいい。それでいて感情の爆発のような破壊力のある音も聴けるのが良い。
2楽章は特にふざけている。ヴァイオリンの音の外し具合はヒンデミットやプロコフィエフと通ずるアイロニーを感じる。崩されたレントラーやワルツ、ラヴェルのラ・ヴァルスのような、真面目で美しいようなふりをしながら人を小馬鹿にしている様、そういうのが好きだ。
3楽章は真面目に一番マーラーらしい。時間がないときは3楽章だけ聴いてもいい。美しい。調性や拍子の移り変わりも実にそれらしいし、何より終盤に突然雷に打たれたように天国への扉が開かれるような、あの仰々しい盛り上がりもいい。
4楽章はなんというか……歌曲であり、それ以上でも以下でもない。これをフィナーレにしたという点でまずおふざけとしては高ポイント。この曲ありきで1~3楽章を作ったので、先に出たフレーズとの関連は大きい。歌詞はWikipediaにもあるので省略する。しかしこの「歌」で「全てを包括するもの」への答えを提出しようとするのはマーラーの創作性の特徴であり、ウィーンの歌曲の王との近似を捉えるのも自然なことではないだろうか。


ところで何故4番をよく聴くかというと、単純に短いからという理由が大きい。マーラーの交響曲の中で1番と4番は1時間弱くらいで聴ける。他は1時間半~2時間弱くらい要る。貧乏暇なし、二児の父である働くイクメンおじさんは、もうクラオタ活動に割ける時間は極端に少なくなった。だからオペラや、マーラーとかブルックナーの交響曲を聴くのは厳しいのだが、小一時間で聴ける4番は今の僕にとってサクッとマーラー成分をチャージできる強い味方だ。
某K大学出のK大教授は「電車に乗って通勤している人間には、クラシックはわからない。トヨタ車に乗って満足している人間には、クラシックはわからない。僕はこれが百パーセントの真実とまで強弁するつもりはない。だが、ほとんど真実だとは確信している」書いたが、そりゃまあ、豪華で贅沢なのはクラシックの一面でもある。というか金と時間をかければそれだけの見返りはあるのが世の中の大体の文化や趣味というものだ。
しかしそれでも、金や時間がなければないで、無料でも、短時間でも、楽しめるのもまたクラシックの良さである。貧乏なら図書館でCDを借りるもよし、YouTubeでもよし、ブックオフで一番安いCDから聴いていくのもいい。3時間のオペラが聴けなければ3分の小品を愉しむ。
逆に電車で通勤している人間にしか、トヨタ車に乗って満足している人間にしかわからないクラシックもある。その想像が出来ないのが、ボンボン大学出のボンクラ教授なんだよなあ。ああ、こんなやつが偉そうに評論家面しているなんて、貧乏に喘いでいた大作曲家たちに顔向けできないね。
いえいえ、なにも、僕は受験生の頃、滑り止めで受かっているK大を親から「私立なんて行ったら破産する」と言われ国立大学に行ったのだけど、もしK大で何とかボーイと呼ばれ華やかなキャンパスライフを送っていたら、もっとモテモテの人生を送れたのでは……と悔やんでいるわけではありません。やっかみではないぞ。


冗談はさておき、ヒンデミットやプロコフィエフを挙げておいて言うのもあれだが、こちらもまた僕の好きな作曲家、シューベルトの幻がふと映し出されるようなところもまた、この曲の好きなところである。
ロシアの音楽学者インナ・バルソヴァは第4番を「歌から生まれた交響曲」と書いている。また「シューベルトは常にマーラーに最も近い作曲家であり、歌曲だけでなく「歌の」交響曲についても言える。シューベルトはマーラーのどの作品よりも巨大な広がりを持つ」としている。編成の大きさや曲の長さは、「歌」において本質的なものではない。小さくても短くても、素晴らしい「歌」の広がりは無限大だ。

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