シューベルト 弦楽五重奏曲 ハ長調:形而上学の終わり

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シューベルト 弦楽五重奏曲 ハ長調 D956

シューベルトの室内楽作品の最高峰と言われ、僕のようなシューベルト大好き、室内楽も大好きな者にとっては大変ありがたい大好きな曲……ではない。正直そこまで好きではないし(嫌いでもないけど)、シューベルトの曲を聴くなら他の曲を選んでしまう。
「このシューベルト最晩年の深い深い音楽の良さがわからんとは、けしからん!」と言われそうなので、あまり公言していなかったが、僕もクラシック音楽をそれなりに長く聴いて、もう自分の意見に自信を持ってもいいだろと思ったのが一つ、あとは、もしかすると数年後あるいは数日後に突然大好きになってしまうかもしれないから、逆に今のうちに書ける気持ちを書いておこうと思ったのが一つ。ということで、つらつらと書いてみるのである。


楽曲解説が読みたい方はWikipediaでも読んでください。少しだけ書いておくと、作曲されたのは1828年の夏、シューベルトが亡くなったのは1828年11月なので、死の数ヶ月前になる。弦楽五重奏曲というと、モーツァルトにならってヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロ1という編成が多いが、シューベルトはここではヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ2という低音重視の編成を取っている。
チェロを愛したシューベルトらしい低音域の充実をもってして、その最晩年に音響・編成の変則的な室内楽曲を生み出したことは、室内楽の歴史上、確実にその世界を拡大することに寄与したと言えるだろう。
全4楽章、演奏時間は1時間ほどの大作だ。長大な1楽章からも、低音域を活かしたリリカルな響きが楽しめる。


と、ざっくり解説した上で本題。大体、音楽を好きになるのは2パターンで、何も知らずに聴いて刺さるパターンと、色々調べて知識を得てから聴いて刺さるパターンがあるが、僕は何も知らずに聴いたときは「?」という感想だった。もちろん美しい旋律も登場するし、エモい和音や軽快なリズムもあるし、神妙なというか、瞑想的な雰囲気もある。それから何度か聴いて、良い曲だとは思うようになったけれども、何度聴いても何年聴いても「最高傑作?なぜ?」という疑問は残った。


シューベルトの音楽に天国的な冗長さと宣った先人は偉かった。これ以上便利な言葉は確かにないだろう。普通は褒めて使う言葉だが、僕はこの曲について人に話す必要があるなら苦笑しながら「天国的だ」と言うね、角も立たないし。
好きではないなどと言いながら、クラシック音楽ファンを相当年数やっていれば当然、しかもシューベルト好きとして色々聴き漁ればなおさら、それ相応の回数は聴き込んでいるので、ある程度知識がある人なら感じられるであろうこの曲の「音楽技法的なシューベルトらしさ」は、僕にだって感知できる。息の長い楽想の絡み合い、確固たる歌の存在……その全てが、僕の心に感動を生むことを許さなかったのだ。まさに天国的である、地上の俗物である僕が何か言うことなどできないのかもしれない。
いくら聴いても、スッと入ってこない。色々と考えたりもした。僕はもっともっとキャッチーなメロディでないとグッと来ないんじゃないか、とか。「シューベルトはこの曲で交響曲的な響きを求めた」と書いてあるのを見て、これが交響曲としてオーケストラで奏でられたらまた違うのかな、とか。他の晩年のシューベルト作品はもっと好きになったのに、なぜ、と自問してしまう。例えば交響曲なら未完成やグレート、室内楽なら弦楽四重奏曲第14番や15番、あるいは歌曲集「冬の旅」、後期ピアノ・ソナタなど、どれも大大大好きだ。晩年とは言えないが、同じ五重奏曲ならピアノ五重奏曲「ます」も大好き。なぜ、こんなにも、弦楽五重奏曲だけは頭に入らないのか、不思議でならない。


でもシューベルトらしさはある。これは確かだ。だから僕は、この曲が悪いとは言わずに、自分が悪いということにした。何しろ世の中には、この曲の深遠なる世界に感激する人が数多いるのだ。ああ、僕ももう少し頭が良かったら、この曲の前にひれ伏し打ちひしがれていたのかもしれない……。
まあ頭の良し悪しはともかく、どうにも僕は「ピュアさ」が足りないと自覚しており、世の中のクラシック音楽ファンの中には、僕が冗談ばかり言っているのが申し訳なくなるほどに真面目で、本当にピュアなハートでシューベルトを愛せる人がいるというのも知っている。僕は残念なことにそういうタイプではないので、ああ、弦楽五重奏曲は、茶化した態度や不真面目大好きな僕みたいな人じゃなくて、本当に汚れなき心で対峙できる人でないとダメな曲なのではないか、とも思ったりした。
だが、そうして無理解を自分のせいにする一方で、僕は、この曲を理解した風な他人の言動や態度を、もう見ていられなくなってしまった。僻みと言えばそうに違いない。おそらくは、純粋でなければ届かない音楽の高みというものもあるだろう。だが僕は今、そこに到達することはできないし、したくない。天国に行った人はもう地上に戻って来れないのと同じように、天国の音楽を真に理解することは、すなわち地面を這いつくばって生きる音楽がわからなくなるということではないだろうか。僕は嫌だ、まだ死にたくない、もっともっと、聴きたい音楽がたくさんあるのだ。


ドイツの音楽評論家、ヨアヒム・カイザーは、シューベルトの弦楽五重奏曲について「謎めいていて、完璧である…..この作品の音色の謎を言葉で完全に解き明かすことも理解することも、人間にはできない」と語った。
言葉を超えた音楽。やはり語り得ぬものは沈黙する僕が正解なのだ……なんて、こんなところでも冗談をかましてしまったが、ところがどっこい、哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、シューベルトの弦楽五重奏曲をあらゆる音楽の中で最も偉大な作品のひとつだと考えていたそうだ。
多分そういう話を、ウィトゲンシュタインは周りにしていたのだろう。1945年、イギリスの哲学者ジョージ・エドワード・ムーアは、ウィトゲンシュタインに宛てて「シューベルトの弦楽五重奏曲は、君の言う通り極めて素晴らしい曲だと思った、しかしもっと何度も聴く必要がある。私の知っているシューベルトの曲とは大変異なるものに思える。ベートーヴェンの後期作品が初期作品と違うのと同じような方向性だ」と手紙を書いており、それに返信したウィトゲンシュタインは「あなたのシューベルトの評は私も理解しているつもりです、私も同じ言葉で表現すると思いますね。弦楽五重奏曲は、phantastic(空想的)な類いの偉大さを持ち合わせていると、そんなようなものだと信じています」と書いている。


僕は弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」について、死と隣り合いながらも「生」を全うする輝きという観点でブログを書いたしかし弦楽五重奏曲は、人間の「生」や「死」という領域ではない、もう一つ高次へと上った音楽なのかもしれない。地上にいる人間にとって、謎めいていて完璧であり、空想的ですらある音楽。いくら考えても、到底わかりそうにない。人間の言葉や思考や理解の終わったその先にある世界、シューベルトがそういう音楽に到達したという意味で、最高傑作なのだとしたら、僕はやはり、好きにはなれない。


【参考】
McGuinness, B., Wittgenstein in Cambridge: Letters and Documents, Wiley-Blackwell, 2008.


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