国立西洋美術館で開催されているラファエロ展に行ってきました。最終週になんとか間に合って良かったです。平日の仕事終わりに行ったのですが、さすがはラファエロ、チケット売り場は少し行列でした。まあ日曜なんかに行ったら大行列で何時間待ちとかだったんだろうし、それよりかはマシでしょう。


嫁さんはあまり宗教画に興味がなく、必然的にルネサンス絵画の展覧会は行く機会が減っていました。今回も行く予定ではなかったのですが、たまたま「美の巨人たち」でラファエロ特集を見て、嫁さんもちょっと興味が湧いたらしく、開催期間ギリギリに滑り込むこととなったのです。


一番の目玉『大公の聖母』は、近くで見るとやはりいっそう敬虔で、全てを包んでくれるような温かな雰囲気がありました。祈りのための絵画としてこれほどふさわしいものは他にないのではないか、そう思わせるほどでした。


背景を黒く塗ったのがラファエロ自身ではないにせよ、この聖母がこれほど美しく目に映るのは、トスカーナ大公もそうだったでしょうが、間違いなく背景の黒があってのことでしょう。後に他人にいじられたからこそ、ここまで人を惹きつける作品になったと断言しては、言いすぎでしょうか。音楽も、作曲家の死後に補筆されて完成した作品があり、それにも賛否両論ありますが、こういう絵の抗しがたい魅力を目の当たりにすると、美というものは作者の手を離れてから形になることもあるのかな、と思います。


ラファエロは聖母子像を得意としていたそうですが、僕が今回の展覧会で気になったのは、ジュリオ・ロマーノというラファエロ門下の画家の描く『聖家族』と『聖母子』です。これらは、両方とも聖母が書を持っていて、かつ幼子イエスが生き生きとしている様子、という構図になっています。聖母が書を持つ、あるいは読むというのは、彼女が知性・知恵のある人物という意味を象徴しているのですが、知恵ある女性としての聖母が、幼子の戯れに対応するという母としても同時に描かれているのは、とても興味深いですね。

 


『聖家族』の方は、幼子イエスが聖母の読んでいる本のページを捲ろうとしています。それを見ているヨセフとマリアは、両者ともに少し困ったような、呆れたような表情をしていますね。しかし、ヨセフの方は「本当にこの子は……」とちょっと参ったような顔で、指で腕をトントンとして苛立っている様子なのに対して、マリアは困惑しつつも幼子イエスの背後に腕を回し、子どもの悪戯を優しく諭しているようです。『聖母子』の方は、何かを手に握っている幼子イエスに、聖母が読書を中断して、ページの間に指をはさみながら、優しく頬を寄せています。聖母のこのような対応は、母性の表れと解釈することができそうです。


聖母子は祈りのための絵画であるだけでなく、15世紀16世紀の、特に女性たちにとっては、一つの女性の理想像であったと考えることは妥当だと思います。困ったときや悩んだときは、マリア様の絵の前にたち、祈りを捧げ、絵画の中にいる聖母の温かい眼差しや優しそうな仕草を見て、この方のような立派な女性でありたいと思うものでしょう。


『大公の聖母』は、トスカーナ大公が暗闇に浮かぶ聖母に心を奪われ、熱心に祈ったことが想像されますが、一方ジュリオ・ロマーノの聖母は、女性たちが書を持ちつつ幼子イエスの相手をしようと注意を向ける様子を見て、様々に思いを巡らせた絵画だと想像できるでしょう。「マリア様も子どもの悪戯には困っていたのね。でも優しく子どもを愛してらっしゃる。さすがマリア様だわ」とか、「子育てで忙しくても、きちんとマリア様は本を読んでらっしゃる。女も勉強することは欠かせないわ」とか、考えていたのかもしれません。まだ当時の女性たちには、今のような教育はされていないですし、そもそもリテラシーもどの程度あったのかわかりませんが、こうした絵画が母親としての在り方の啓蒙になっていたのではないでしょうか。

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