イギリス・ロンドンのロイヤルオペラハウス新制作のムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』で、ロイヤルオペラハウス側が謝罪するという事件が英ガーディアン紙のサイトで取り上げられていた(元記事はこちら)。察しの良いクラシック音楽ファンならば、ボリス・ゴドゥノフというだけで何となく予想がつくかと思うが、当然このオペラの演出についてである。ガーディアン紙によれば、劇場は泣き叫ぶ子どもたちの声に満ち、そこら中で「ねえママ!ずるいよ!1869年原典版じゃんか!約束したじゃんか!」と喚く子どもが続出したとか。というのは英国流ジョークだけども、相当リアリスティックでホラー満載の演出だったようで、すぐさまパトロン全員の元にロイヤルオペラからごめんなさいメールが配信されたそうだ。


もちろん、プログラムにはちゃんと「この演目にはリアルな描写や若いドミトリー王子の殺人者などが表現されております。12才以下のお子様には適切でないことをご忠告します」といった文言が付されていた。ちゃんと読んだ親なら問題ないはずだ。そもそもオペラというのは、リアリスティックな芸術形式だし、中身なんて子どもにとって間違っても倫理的に良いとは言えない。まあ十中八九、最後には誰かが死んで終わるし、なんかとんでもない犯罪をするやつが出てくる。こんなのは、事前知識なしで初めてオペラを見に来た人以外、普通わかってるはずだ。それこそ、若きドミトリー王子が無残にも殺害されるシーンを見た12才くらいの子どもが大きなショックを受けることくらい、容易に想像できる(ガーディアン紙の、というかこの元記事の良いところは、それを慰めるにはうちに帰って家族でプレイステーションを取り出しグランド・セフト・オートコールオブデューティでもするしかないと、どうでも良いネタをぶっこんでいるところである)。


だから別に、ロイヤルオペラ側が謝罪するのはちょっと違うような気もするが、どうもこれはロイヤルオペラが神経質になりすぎて、要は「日和った」ということか。2015年の夏にロイヤルオペラで発表されたロッシーニの『ウィリアム・テル』でも、あまりに露骨なレイプシーンがあって上演中にブーイングが起こるという騒ぎがあったということもあり(この騒ぎの様子の記事がブログ『着物でオペラ in ロンドン』さんにあります)、ロイヤルオペラも今度は謝らないとマズイなあと思ったのだろうか。もちろん、この公演でも事前に「ヌードシーンがあります」という注意書きはあったそうだが、観客側はまさかこんなにも酷いとは思わなかった、とギャップがあったことだろう。


『ボリス・ゴドゥノフ』の件では、最終的にはロイヤルオペラが謝罪することになったのだが、だからと言って今後一切の過激な歌劇(ダジャレになってしまった)を禁止するとか、前もって何でも注意書きしておくとか、子どもが真似しないように気をつけるとか、そういう訳にはいかないだろう。ガーディアン紙の記事でも言っているが、これは「滑りやすい坂論法」であり、つまり一旦坂を下ったらどんどん滑り降りてしまうから、最初の一歩を踏み出してはいけないというもの。じゃあ今後、オペラの公演の際には、ポスターに『蝶々夫人』(※お母さんが自殺します)とか、『ワルキューレ』(※近親相姦があります)とか書けばいいのだろうか。それとも子どもに真似されたら困るから、『トスカ』のバルコニーには「転落注意」とか看板でも立てておくのが良いのか。


この点、映画というジャンルでは大変わかりやすい。良くも悪くも、映倫がきっちり仕事をしているため、子ども連れで『アウトレイジ』を見に行くことは不可能だし、今回の『ボリス・ゴドゥノフ』や『ウィリアム・テル』のような悲劇は起きにくい。しかしオペラではどうだろうか。総合芸術であり、ある意味で芸術の最高権威であるオペラであれば、極悪非道な行為も「芸術の名のもとに」合法的に表現できるという共通認識のようなものがあるように思われる。世の中きれいなものばかりではないし、むしろ汚いものばかりなのだから、真実の世界を表現しうる芸術形式でもある。見る人の世界を広げることこそ、真の芸術の役割だろう。


だから芸術は謝罪するな、というのがこのガーディアン紙の記事の主張であり、ごもっともなことだ。しかし僕が思うに、重要なことは、芸術家には謝罪しない権利があると同時に、そういう芸術家をどう見るかは鑑賞者の自由であるという点だ。謝罪しないからと言って、そのことが芸術的価値を増すということは一切あってはならないと個人的には思っているのだが、どうもそうはいかないようで、地道に「私は崇高な芸術家であり、理解できない大衆が悪い」という主張を続けている方が芸術家として名を上げていくという傾向はある。かつて自分の性器を象って芸術家気取っていた人がニュースになっていたが、「芸術の名のもとに」を振りかざして芸術活動を行う者ほど、滑稽な者もいないと思っている。芸術と言えば合法的になんでもできる時代というのは堕落としか思えないのだが、どうだろうか。

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