ベートーヴェン : 交響曲全集 (Beethoven : The Complete Symphonies / Blomstedt | Gewandhausorchester) [5CD] [Live Recording] [輸入盤] [日本語帯・解説付]


「良い音楽とは何か」……この答えの無い問いに、今自分が思っていることを書き留めておこう。書くべきときが来たらまた違ったことを書くかもしれないが、それはそれとして、今を記録しておこう。


クラシック音楽を聞くようになったのは中学生の頃で、まだ田舎に住んでいた僕は親が持っていたクラシックのCDやレコードを聴いたり、図書館でCDを借りたりするしか鑑賞の方法を知らなかった。それは言い過ぎかもしれないが、地元では滅多にコンサートを聴くこともなく、なんてったって学校の勉強には熱心な(!)僕のことですから、コンサートに行ってみようという気にもならなかった。吹奏楽をやっていたのでもちろんコンクールや演奏会も経験したけども、それとは別に、実際に趣味としてコンサートに行こうと思ったこともほとんどなかった。だから、音盤収集はずいぶん長いことやっているが、コンサートに通うことを趣味として始めるようになったのは大学入学で首都圏に出てきたことと、その後就職して(微々たる)経済力を得たことがきっかけ。


だから、ここ何年か隆盛を誇るSNS等を通して、中学高校など青春時代を首都圏で過ごすことのできた若者を見ると、とてもうらやましく思う。特に東京は毎日代わる代わる刺激的なコンサートがあり、一流アーティストの演奏に簡単に触れることができる。さほど裕福でなくても、2,3千円も出せばプロのコンサートに行けるし、器楽・声楽・室内楽からオーケストラ、オペラまで、日本人だけでなく古今東西の名手も、何でも揃っている。これほど生演奏に恵まれた地が日本にあるのかと、改めて驚く。


そんなコンサートの感想も、わざわざ一月二月遅れて雑誌で読まなくても、インターネットでリアルタイムに見られるようになった。これは面白い。ああ、今日はどこどこでこんな名演があったのか、と思い巡らすだけでも楽しい。そうして感想を見ていると、よく目にするのは「現地でコンサートを聴くのと、後で録音録画を見るのは別物だ」という感想だ。言葉通りで言えば別物に違いないのだが「音楽はコンサート会場で聴くのに限る!」という考え、僕も以前は「そりゃそうだよな」と思っていたが、最近はそうでもないんじゃないかと思うようになってきた。


というのは、最近の録音技術がものすごいからだ。編集も、放送も、また映像に関してもそうだ。昔のものとは比較にならないほど高品質で、臨場感も凄まじくて、本当にすごい。まあ、例えば何かの演奏会の録音があって、それが後になって高音質のSACDで発売されました、というのならまだわかる。しかし今やリアルタイムの放送ですら、恐ろしいほどの臨場感がある音楽が流れる。僕はそもそもラジオなんて中学生とか高校生の頃に音質の良くないFMでロックやクラシックの番組をちょこちょこ聴いていた程度だったので、現代のネットラジオのハイクオリティっぷりには心底びっくりしたものだ。いつだったかORFで楽友協会大ホールで演奏するウィーン放送響を聴いたときなんかは、まるでその場にいるんじゃないかと思うほどだった。演奏はもちろん、客席のざわめきや、チューニング、足音がどこから聴こえてどこへ行くか、咳やくしゃみ、拍手……演奏以外の音もまるで客席に座って聴いているかのように響く。これには本当に衝撃を受けた。これはもう、ほとんど生演奏、ライブなのではないかと、そう思ったのだ。


その衝撃のおかげで、僕はすいぶん海外のネットラジオを聴き漁るようになった。ドイツ、オーストリア、イギリスから始まり、フランス、ハンガリー、オランダ、ニューヨークもあるかな、まあこの辺までは良かった。イタリアとロシア、君たちは相当な曲者だ。そして両者とも隠れた名演の宝庫である。僕も正直まだ探り探りで、ワクワクして聴いてみたらクソみたいな音だったりすることもある。少し話が逸れてしまったが、そんな風に聴いているうちに、ふと未来のことを想像した。2017年でこのクオリティである。2030年にはどうなっているのか、末恐ろしい。今でさえ、アルバート・ホールやコンセルトヘボウに実際に行かなくても、リアリティのある演奏をリアルタイムで聴けるというのに。


だから妄想してしまうのだ。2030年、僕は自宅の椅子に腰掛け、VRを装着すると、楽友協会ホールの1階席にいる。後ろを振り返れば満席の聴衆が見える。この人達は本当にその場にいる人達だ。ウィーン・フィルが舞台に上がる。小皺の増えたダナイローヴァと握手するのは、113才でなおも健脚で指揮をするブロムシュテットだ。未完成交響曲が始まると、僕は自宅にいながらウィーンに海外旅行、しかも2030年のウィーンにいながら19世紀のウィーンに時間旅行まで楽しめるなんて。視覚も聴覚も、あるいは嗅覚まで、ほとんど生と変わらない。なんてことが可能なのではないか!?


もしこうなったとき、果たして「音楽はライブに限る!」のだろうか。僕はライブとほとんど同じ経験をしているが、ライブをライブとして聴いている人は他にちゃんといる。ウィーンにも行ってないし、飛行機代も宿泊費もかかっていない。METのライブビューイングの超進化版というところか。この高性能ライブビューイングも、1回こっきりなら生演奏の方が優れていると言えるかもしれないが、もし録音録画媒体として流通したら? この臨場感が繰り返し味わえるとしたら? ねんてことも、技術的に可能な時代は来ると思う。音楽的なこと、アーティストがどんなテクニックを披露して、どんな工夫を凝らして表現しているのかは、正直一度聴いただけで全て理解するのは難しい。何度も何度も聴き返すことで新しい魅力を発見することも多いし、聴き返すことで好きになることもある。今は、自分の聴いたコンサートを聴き返すとしたら、後日音盤や映像になって出たものを聴き返すのが普通だろうが、もしかするとライブ直後に超高性能ライブビューイングを通して振り返ることも可能になるかもしれないし、そうしたら1日に2度同じコンサートを体験できるようなものだ。


ライブの持つ圧倒的な優位点である「一回性」が失われたら、ライブに何の意味があるのだろう。もちろん、完全には失われないだろうが、北海道で食べた思い出の味噌ラーメンの名店が近所にも出来たときくらいの一回性の喪失はあるだろう。味はほぼ同じ、もし目隠ししたらどっちが北海道の本店かどうかわからないくらい。違いといえば「北海道に行った」という事実のみ。このくらいの再現は可能になると思う。だからもし「音楽はライブに限る!」の良さを語ろうと思ったら、「行った」という事実のみが有意差になるときが来るだろうし、実際かなりそれに近いくらい今の録音や放送は高品質である。


この「実際に行った」ということを、音楽の評価に含める人とそうでない人がいるから大変だ。また、同じ人の中で含めちゃうときもあれば含めないときもあるし、これが関わると途端に話がややこしくなる。行こうが行くまいが、演奏された音楽は同じだが、どうも実際に行ったものは高評価されがちだ。別にそうでないという人もいるが、いつかコンサートに行った人が聴く音楽とリアルタイムで聴けなかった人が聴く音楽に差がなくなったとしても、コンサートに通うことは意味のあることなのだろうか。


会場の雰囲気や空気感、僕はこれさえもう差がなくなりつつある(完全になくなるとは言えない)ように思う。するとどうだろう、実際にウィーンの街を歩きホールに行く前に寄ったカフェで頼んだケーキの味やコーヒーの香り、ホワイエで過ごした時間やそこで会って話した人、休憩時間にワインを飲みながら同伴者と語った感想、心地よい余韻を感じながら終演後に行ったディナー……こういうことを評価に含めることになるのだろうか。こんな素晴らしい体験があったから、だから良い音楽だった、という評価をする人は昔からいるし、ちょっと話は変わるが、ゴーストライター発覚前に佐村河内守の交響曲を絶賛していた人たちは、音楽そのものではく、それに付随するストーリーを含めて評価していたのだろうし、それと似たようなことではないか。なお、皆さん安心してください、審美眼の鋭いこのワタクシは一切絶賛したことはないですからね、フハハハ。

(偽)背景を知らずピュアな気持ちで聞いたので、そんなに大騒ぎする曲じゃないだろと思ったが、(偽)ストーリーを知った後に聞いていたら僕も絶賛していたのだろうか、どうかな。


「高いチケット代を払ったのだから」「旅費だけでこんなにかかったのだから」と演奏に対価を求めて、その対価分だけ「ああやっぱり良い音楽だった」と評価することは、音楽の中身そのものには全く関係ないのは自明なこと。あるいは「明日はこれからこんな音楽を聴くんだ」とか「今日こんな素敵な音楽を聴いたぞ」と思うことで、会話の楽しさも食事の味も何もかも変わるだろうし、逆もまたしかり。会話や食事の楽しさが、これから聴く音楽の満足度に影響を与えることもある。演奏者には全く関係なくて、鑑賞者にとってのみ大いに関係ある事柄は、音楽の評価の正当性を下げるか? 演奏そのものに客観的な評価を与えようとするのはとても難しい。趣味や好みなど、徹底的に自己を排除して音楽を語れるだろうか。育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイし、主観を排した評価など不可能だと認めることが必要なのだとしたら、音楽の評価にストーリーを含めることも不自然なことではないのではないか。


だから僕は思うのである。演奏会前に飲むビールや、休憩中に乾杯するシャンパンは、そりゃあ量によっては判断力を鈍らせるかもしれないが、むしろ音楽体験をさらに豊かにするもので、もはやこれだけがコンサートに行く楽しみもとい意義になってしまう日も遠くないのではないか……ストラヴィンスキーだってバイロイトでくだらん音楽だなあと思いつつビールが旨いと言ってガブガブ飲んでたみたいだし……などとね。まあ冗談はともかく、コンサートに通うことは人生を豊かにする体験の購入である。それを「音楽の良さ」に加味することは、幸福な人生を歩みたいと思う人であれば当然のことだろう。しかし今や、生演奏のコンサートでなければ得られないものの正体ははっきりしてきた。だから「コンサート会場で聴くに限る!」と主張する人は、先に挙げた音楽そのものではない体験を音楽の評価の主たる材料として考えていると結論付けざるをえない。そうでなければ、録音の乏しい過去の話をしているか、今を知らないか、未来を見ていない人のどれかだ。

1953年ルツェルンのフルトヴェングラー

フルトヴェングラーの時代なら、コンサート会場と録音では音響に相当な違いもあるだろうが、もうそんな時代ではなくなってきている。


僕は「人生を豊かにする材料」を音楽の評価に含めてはいけないとは決して思わない。ただ含めることを隠したり、恥じたりしないで欲しいのだ。素直な感想として誇って欲しい。「曲の内容はよくわからなかったが恋人と初めて一緒に聴いたコンサートだから良かった」「音楽は好みじゃなかったけど高いチケット代払ったんだから良い演奏なんだろう」「皆は拍手喝采しているが隣の人が臭くて最悪だった」なんてのは大いに結構で、むしろ「音楽の中身を聴くべき!」というもっともらしい主張だって、これは唯一絶対の真実ではないのだ。あくまで様々な聴き方の中の一スタイルである。だから音楽の中身とチケット代や旅費や隣に誰が座っていたかを全て加味しても一向に構わない。別に「音楽の中身なぞ聞かなくてもよろしい、コンサート会場に足を運ぶのが全てなのだ」という聴き方を提唱しても悪くはない(まあそう多くはいないだろうが)。


それにしても、コンサート会場における「コンサートに行くことがメインの層」と「音楽を聴くことがメインの層」の間にある深い隔たりには、僕は結構興味がある。なかなか交わることのない客層なのだが、どちらが良いとか悪いとかではなく、どちらもいてこそのコンサート文化なのだなあと、改めて思う。願わくば、富裕層の方々にはぜひとも有名なだけで大したことないアーティストではなくて本当に良いアーティストのためにお金を使って興行主のお尻を叩いていただきたいし、知識と教養のある音楽ファンの方々には、無知で無教養だけどコンサートだけは行く謎の勢力をやっかんで蔑視しないでいただきたい。そしてできれば、千差万別、無限大にあろう音楽を聴く楽しみを、自他問わず制限するのではなく、受容して拡張させることができたらなあと、理想を描いてしまう。聴き方だけが個人の心の内にあり、外に実在するのは「音楽」そのもの。どんな音楽であれ、聴き方によって、それは誰かにとっての「良い音楽」になるのだ。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書) 音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
岡田 暁生中央公論新社
売り上げランキング : 69697Amazonで詳しく見る by AZlink