ゲルハルト・プリューガーとライプツィヒ放送交響楽団の知られざる歴史

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なんて、まるで「ミッキーとミニーのマジカルアドベンチャー」みたいなかっこいいタイトル付けましたが、今回は(いつも大体そうだけど)海外サイトから情報集めただけよ!9月4日はブルックナーの誕生日ということで、Twitterで盛り上がっていた。なお同日でダリウス・ミヨーの誕生日でもある。ブルックナーの音楽を聴いてミヨーと毎年毎年言い続けたおかげで覚えてしまった。


もはや宗教戦争のような誰の演奏が云々、何番の版は何が云々という話題は、僕もブルックナー好きとしては首を突っ込まない訳には行かず、まあでも界隈で話題になる演奏や版や稿については一通り楽しんだかなということで、気が向いたときや出会いがあったときに、まだ持っていないレア音源を集めて聴いてニヤニヤするオタクとしてひっそりと活動している。


ということで、出会った音源をひとつ紹介しよう。
ゲルハルト・プリューガー指揮ライプツィヒ・フィル(ライプツィヒ放送響、現MDR響)のブルックナー 交響曲第5番、1952年4月3,4日録音のLYS盤。


現代は技術的に上手いオケの上手い演奏がいくらでも聴けるので、そもそも録音がクソ音質だったり、平気でトチったりする演奏を聴かずに育ったファンもいることだろう。だから、1950年代の演奏なんかは、ある程度、聴くときに背景知識がないと楽しめないというか、知識があれば演奏から意味や価値を見出すことができる。逆に言えば、何もその辺のことがわかっていないのに、聴き込んだりスコアでも読んだりして曲についてだけ知っている状態で、シューリヒトやクナッパーツブッシュの演奏を褒め称えるのは、まあ人様の好みなので別に結構だけども、僕はいまいち信頼できない。


ゲルハルト・プリューガー(Gerhard Pflüger, 1907-1991)という指揮者をご存知だろうか。知っていたら相当のコレクターか何かだと思う。ドレスデンに生まれ、シュターツカペレ・ドレスデンのオーケストラスクールで、クルト・シュトリーグラーやフリッツ・ブッシュの薫陶を受ける。コレペティや合唱指揮者などを経て、各地の歌劇場で指揮。1940年、ナチ党に参加。1946年ドイツ社会主義統一党(SED)に参加。という経歴のせいかは知りませんが、あまり顧みられない。一応録音はそこそこあるようだが、ほぼ海賊盤。国内流通はかなり少ないと思われる。


ライプツィヒ放送響では1949–1956まで常任指揮者として活躍していたらしい。らしいというのは、正直ネット上にある情報ではそのくらいの言い方が限界で、パーマネントコンダクターとして振っていたとあり、MDR響の英Wikipediaには、ヘルマン・アーベントロートと同時に首席指揮者としてラインナップされているのだが、独Wikipediaには一文字も記述が見当たらない。避けられているのかしら……。別にWikipediaだけでなく、MDR響の首席指揮者については、オケの紹介や指揮者の紹介を見ても、在任期間が違って書かれていたりで、何を信用したらいいかわからない。というか、かなり昔はその辺もなあなあだったんじゃないかという気がしている。


元ナチという点ではプリューガーもアーベントロートも同じだが、やはりアーベントロートくらいの大物になれば歴史から抹消されることはないし、そもそもアーベントロートはナチスには非協力的でケルンから追放されライプツィヒへ行くも、ゲヴァントハウス管の指揮者としての職を保持することと引き換えに仕方なくナチに入党したという経緯がある。それでもアーベントロートのゲヴァントハウス管を率いた活躍ぶりは高く評価されていた。しかし戦後はナチ党員であることを理由にカペルマイスターの職を辞しすことを余儀なくされる。1945年末に退任し、翌年にはヴァイマル音楽大学学長に就任している。


ライプツィヒ放送響の話をしよう。1934年から首席指揮者を務めたハンス・ヴァイスバッハはナチ党員であった。ナチスの台頭と共にライプツィヒの聴衆にもワーグナーが好まれるようになり、またヴァイスバッハはJ.S.バッハを得意としていた。1937年には「ライプツィヒ音楽の日」という歓喜力行団(KdF)のイベントでの演奏も行われた。しかし戦争が激しくなり、1941年に活動休止、事実上の解散となり、メンバーはリンツのオーケストラ等へ加わる者もいた。ライプツィヒは空襲もあり、ゲヴァントハウスも焼失している。


戦後、1945年にはメンデルスゾーン音楽大学の学長だったハインリッヒ・シャハテベックと指揮者フリッツ・シュレーダーの下、12人の元メンバーで活動再開。その後ドレスデン・フィルで主席を務めたゲルハルト・ヴィーゼンヒュッターを迎え本格的に活動を始めると、再びオーケストラも力を取り戻していく。ヴィーゼンヒュッターは音楽的には大きな貢献をしたようだが、SEDが力をつけてくると、オケを党の影響下に置きたい幹部と、オーケストラの独立を目指すヴィーゼンヒュッターとの間で軋轢が生じ、結局ヴィーゼンヒュッターは追放されてしまう。


名匠を失ってしまったライプツィヒ放送響は1949年、かつてゲヴァントハウス管を率いて大活躍したヘルマン・アーベントロートに白羽の矢を立てる。SEDの幹部たちは、元ナチ党員という肩書もよろしくないし、アーベントロートはSEDに加わるつもりはなかったそうで、初めはポストに据えたくはなかったらしい。しかし、ライプツィヒを一度離れてヴァイマルへ行ったアーベントロートは、ヴァイマルでも大活躍で、特に国立劇場のオケを拡大し、雇用条件も改善、もちろん音楽面でもレベルアップを支え、幅広いレパートリーを開拓。周囲の評価は非常に高く、地方から一流オーケストラを生み出したと称えられた。ということで、政治的理由で離れたライプツィヒに、今度は音楽的な理由で舞い戻ってきたのである。


その後のアーベントロートの活躍ぶりは、多く残っているライプツィヒ放送響との録音を聴いてみてもらえればわかるだろう。活き活きとしたモーツァルトや、それこそブルックナーの9番なども、一聴の価値ある演奏だ。そんなアーベントロートの治世に、SED党員であるプリューガーは、ライプツィヒ放送響を共に振っているのである。アーベントロートより24歳も年下のプリューガーは、それこそドイツ地方劇場での叩き上げではあるが、なぜアーベントロートと同時期にパーマネント職として在任しているのだろう。正直、まったく不明である。プリューガーに関する情報が少な過ぎる。しかし、MDR響のWikipedia(独)に書かれていないのに、英語版には併記されていることや、アーベントロートを呼ぶことをSEDが渋っていたことなどを考えると、これは政治的理由もあったのかなと疑ってしまう。何より、この上のブルックナー5番の、なんとも精彩を欠く演奏を聴けば、ちょっとはそんな目で見てしまうのも仕方ないのではないか……。


早合点しないでいただきたいが、別にプリューガーを無能と言っている訳ではない。ブルックナーの5番だって、別にプリューガーだけのせいでそういう演奏になったとは思っていない。僕はこのブルックナーでプリューガーという指揮者を知ったが、ドヴォルザークの交響曲第9番(1953年録音)やヒューゴ・シュトイラーを独奏に迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番(1954,55年録音)、エルガーの「南国にて」(1954年録音)など、みんながみんなブルックナーのように「うーむ」と感じるような演奏ばかり、ということは決してない。しかし、それにつけてもアーベントロートの演奏の素晴らしさよ。もちろん音質の問題もあるし、残されている録音数の違いもある。が、やはりアーベントロートが当時の圧倒的実力者であったということは、プリューガーには申し訳無いが、はっきりとわかった。おそらくアーベントロートのファンでも、プリューガーが同時期にライプツィヒ放送響を振った録音を聴いたことがない人はいるだろうし、そもそも存在も知らない可能性だってある。しかし、老アーベントロートと共に、24歳年下のSED党員指揮者がこのオケを支えていたのは事実だ。


ウェーバーの交響曲第1番やワーグナーの交響曲(共に1954年録音)などもあるし、曲によってアーベントロートと振り分けていたのかと思うのも面白い。パウル・ビュットナーの交響曲第1番(1951年録音)、レオ・シュピースの交響曲第2番(1961年録音)や、マックス・ブティングの交響曲第8番(録音年不明)など、今はマイナーなドイツ作曲家の曲を振っている。ジョヴァンニ・ホフマンのマンドリン協奏曲(1954年録音)もある。プログラミングも、いわゆる名曲はアーベントロートが、新作やマイナー曲などをプリューガーが、それぞれ多めに
振っていたのかしら……なんて想像する。得意のオペラも、ワーグナーのタンホイザー(1954年録音)が残っている。


残されたわずかな音源でしか判断できないのは、後世の者の宿命なので仕方ないが、このオケのファンはぜひ、アーベントロートだけでなく、プリューガーも聴いてみていいただきたい。ゲヴァントハウス管も歴史あるオーケストラだが、こちらのライプツィヒ放送響も、当時のドイツの政治状況に翻弄されたオーケストラである。と知って欲しくて、長いオケの歴史のほんの一部を書き記してみた。そういうことを知ってから聴くのも楽しいものだし、というかむしろ、知って聴くべきだろう。現代であれば、嫌でも今の社会について知って聴くことになる(中には知らない人もいるだろう)が、そういう聴き方に少しでも近づけて聴きたい。


1956年、アーベントロートが逝去すると、プリューガーも1957年にライプツィヒを去り、アーベントロートが鍛え上げたヴァイマルの劇場を引き継ぐことになる。1962年にはフランツ・リスト・ヴァイマル音楽大学の教授となり、指揮を指導したそうだ。事実上、アーベントロートの弟子と言えるのかもしれない。ライプツィヒ放送響は、こちらは確かにアーベントロートのアシスタントだったヘルベルト・ケーゲルの時代になる。ケーゲルはファンも多いので、書かなくてもそこら中で語れていますね。プリューガーについては、あまり語られていないので、語りました。知られざる歴史っぽいでしょ?


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Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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