シューベルト:即興曲集


シューベルト 即興曲集 D.899, D,935


クラシック音楽に詳しくない人にシューベルトの即興曲の話をすると、「これは即興で作った曲なの?」と聞かれることがしばしばある。ジャズの名盤では、様々なプレイヤーの即興演奏が録音されたものが沢山あるが、シューベルトが即興曲を作った19世紀前半には、即興演奏を録音する技術も当然無く、その場ですぐに誰かが譜面に起こしたのでもない。
とは言え、幾らか即興の要素が入っているかもしれない。音楽の構造的には、決して複雑に作り込まれたものではないし、シューベルトが頭の中に何気なく浮かんだ旋律をぱっと書き留めた音楽、と言われたらそう聴こえてしまうのも無理は無いだろう。
「即興曲集」と名付けられて出版された曲は、作品90(D.899)と作品142(D,935)の2つで、それぞれ4曲ずつの計8曲。
ソナタや組曲がピアノ音楽のメインストリームであった時代から、いわゆるキャラクター・ピースと呼ばれる小品がピアノ音楽の世界で地位を得る時代へと移っていったのは、シューベルトの即興曲をはじめとする魅力的な小品群があってのことだろう。「即興曲」という名称の作品はチェコの作曲家ヴォジーシェクが最初と言われている。シューベルトの即興曲は、ヴォジーシェクの即興曲が世に出た5年後に出版されたもので、シューベルトもヴォジーシェクの即興曲のことは知っていたらしい。
作品90(D.899)の方は、出版社のハスリンガーが勝手に「即興曲」と名付けて出版してしまったものだが、作品142(D,935)の方は、シューベルト自ら「即興曲」と楽譜に書き込んでいる。
ときどきこの「即興曲」という名称について、「この作品は大変意味深い音楽であるのに、即興の曲なんて軽いネーミングだな」というような記述も目にするが、自由度の高い小品が覇権を得るようになったきっかけとなるような作品だったということで、即興曲という名称に少し愛着を持っても良いのではないだろうか。


夭折したシューベルトにとっては最晩年にあたる時期に作曲されたこれらのピアノ曲は、前回取り上げたドヴォルザークのドゥムキー・トリオが人生の喜びと悲しみのアンティフォナであるのと似ているように、シューベルトがその人生の最後に、自らの人生をどのように見ていたか、またどのように見ることで自身の精神を保っていたか考える機会を与えてくれる作品だ。
作品90(D.899)の第1番、強烈なオクターブのト音から始まり、その後の単音による物悲しい旋律。これは確実に印象に残る。この旋律、これこそシューベルトの真骨頂なのだ。抒情性とは何かを知りたかったらシューベルトを聴けば良い。第2番の華麗さと可愛らしさを兼ね備えた音階風の旋律、第3番のまるで歌曲のような息の長い美しい旋律もまさしくそうだ。第4番のアルペジオから感じうる、心の内に秘めた、小さくも強い興奮。決して人の魂を乱暴に揺さぶったりはしない。繊細に包み込み、染み入るように揺さぶるのだ。
作品142(D,935)は、シューマンをして4曲がひとつのソナタを構成すると言わしめた即興曲集だが、なるほどわからなくもない。しかし、全体としてはソナタよりもっと自由だ。これは、シューベルトがこれらの即興曲を小品として作っていながらも、ごく自然に非常に親密な関係になってしまっただけなのだと思う。第2番の、まるで緩徐楽章のような温もりは得も言われない。第3番は劇音楽「キュプロスの女王ロザムンデ」から引用している。他の作品でも引用しているし、この旋律はシューベルトの生涯にとっていかに大切なものだったか我々は知ることができる。もちろん、1番と4番もどこまでも魅力的だ。


オルガン製造のフィクス社創業者で、シューベルト研究者でもあるC.B.フィクスは、シューベルトの最晩年の音楽の重要な点について“the cyclic return of specific melodic and harmonic material”という表現をしている。
シューベルトの音楽を聴いていると、リピートであったり、主題の回帰であったり、悪く言えば似たり寄ったりのメロディが何度も現れてくる。しかしその、似たり寄ったりのはずの再現・回帰が、シューベルトの場合は実に重要になる。つまらない演奏では、それは確かに退屈な音楽に聴こえるかもしれない。しかし、この絶妙な周期的な回帰は、永遠に音楽を鳴らしていて欲しい思えるような演奏の場合、信じられないほど美しい「歌」として響くのだ。
ピアノが歌う、ということを最もよく知ることができるのはシューベルトの音楽ではないだろうか。即興曲という歌もまた、こんなにも小さな作品ながら、いつまでも、未来までも、終わることのない歌なのだろう。

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