大中恩 混声合唱組曲「風のうた」
2018年ももう終わるので、今年亡くなった作曲家を取り上げよう。「犬のおまわりさん」や「サッちゃん」などの童謡で有名な大中恩(1924-2018)による合唱曲だ。
「童謡」と書いたが、大中恩は中田喜直や磯部俶らと「ろばの会」を結成し、今までの「童謡」とはまた一味違う「こどものうた」を目指し、子どものための音楽に尽力した人物でもある。
そんな大中の合唱曲もまた佳作揃いだ。
伊藤海彦による長い詩に曲を付けた、まるで一遍の交響詩のような大作「島よ」、易しい旋律でありながら軽妙洒脱で大人も楽しめる、「サッちゃん」も収録した「五つのこどものうた」など、枚挙にいとまがない。
今回は、数ある合唱作品の中でも特に僕のお気に入りである、混声合唱組曲「風のうた」を紹介しよう。
新潟生まれの詩人、中村千栄子による四季ごとの風を主題にした詩に大中が曲を付けたもの。中村との共作には「風のうた」以上に人気のある作品、女声合唱組曲「愛の風船」がある。こちらの方は1966年の文化庁芸術祭奨励賞の受賞作で、大中はあまり気負わず書いたものが賞を取るわ人気になるわで気恥ずかしかったそうだ。いかにも女性受けしそうな詩に自然に流れる美しい旋律、これは流行ったのもわかる。
大中自身は女声合唱にあまり興味はなく、好きな順としては混声、男声、女声で、児童合唱にはほぼ興味なしとのこと。「こどものうた」と児童合唱はまた別物のようだ。しかし当時の状況として、女声合唱は売りやすいという理由があり、出版社は好んだんだそうだ。しばし「女声合唱の大中恩」というイメージが先行したそうだが、実際は混声の作品の方がずっと多い。
またこの人気のおかげで、大中&中村は合唱界の名タッグであるようなイメージが広がったようだが、実際は「愛の風船」と「風のうた」の2作しかない。
だいぶ話が逸れてしまった。さて本題の「風のうた」だが、1971年の作で、春は四国、夏は赤倉、秋は奈良、冬は故郷の越後、それぞれの地における「風」のある心象風景を描いた詩に、それぞれ個性豊かで創造性の高い音楽と、非常に楽しく聴ける作品である。
新潟生まれの僕としては、個人的にはこの詩の内容にも、また音楽の内容にもとてもシンパシーを感じるのだ。歌詞はこちらから。
四季の風の歌と、短いプロローグ、エピローグがある。プロローグ、美しく風が駆け抜けるようなピアノの序奏に導かれて、ガッツリ四声ハモりのスケール感の大きなコーラスから音楽は始まる。「風のうた るらら」という詩で、ふと「ルララ宇宙の風に乗る」と浮かんだ。やはり風と言えばるららなのか。
まずは「春の風」、瀬戸内の海面に反射する光が風で揺れている。「ちら、きら」のかわいさが良い。僕が初めて四国に行ったのは小学生の頃だったかな。あの瀬戸内の海、忘れがたい。だって日本海と全然違うんだもの。天気が良かったのもあるが、鳴門海峡で見た海も、小豆島で遊んだ海も、すべてきらきらしていた。そんなことを思い出した。詩中に少女が現れると音楽は急にポップになる。ドビュッシーの「海」ではないが、「海と少女のとりとめのない会話」という詞のごとく、まさしくそんな小さな会話の集まりで音楽も構成されている。愛しい小唄である。
「夏の風」、この曲がまた素敵だ。冒頭の伴奏はまるでグローフェのグランドキャニオンで山道を行く情景を彷彿とさせる。いや、もちろんもっと小さいスケールですよ(笑) 赤倉への慕情を歌った歌で、「赤倉はいい」の部分の歌い方、これはなんと言えば良いのか……とにかく、ここがたまらないのだ。赤倉がいいということが心から伝わる。全体的に、夏の山を楽しむ子どものように、活き活きしている。夏の山というのは、冬の厳しい新潟にとっては、とても大きな存在である。「こっそりあなただけ」でリズムがハネるのも、もう本当にかわいい(笑) まったく、おちゃめ。終わり方も洒脱だ。
可愛らしい2曲に続く2曲は、一転してぐっと重く暗くなる。「秋の風」はいかにも日本の秋。イ短調で五音音階風の、和風の旋律だ。これはまるで「そうだ、京都行こう」と言いたくなる感じ、奈良だけど。日本の秋と言えばマイナー調でないといけないというルールでもあるのかしら、ねえJR東海さん。この哀愁、お前は行楽に来たんじゃないのか!と叫びたくなるが、この暗さは行楽ではないのだろう。傷心旅行だろうか。知らないが、やはりどこか落ち着かない、心許ない……そんな秋の風。新潟生まれとして一言言わせてもらうと、秋は行楽日和と言うよりも、冬を前に備える季節である。物悲しさを片脇に抱えつつ見る日本の伝統は、もしかすると行楽よりも一層深いのではないか。「本物の奈良」が浮かび上がる瞬間の荘厳さ、声の圧力とピアノの入り、得も言われぬ。最後はハ短調で終わる。ラスト1音の低いハ音たるや。
僕が初めてこの曲を聴くとき、「冬の風」が越後と知って、もう聴く前からどうなるか予想は付いていたが、やはりここではさらにさらに重苦しい、ベートーヴェンの熱情の3楽章のように重いピアノ伴奏から始まる。ハ短調で「なぜうめくのか」という無情な自然への問い、ここ越後では、冬の風は戦いの相手である。これぞ日本海側の冬。「すっかり忘れていた」ということはしばらく故郷を離れていたのかもしれない、あるいは今までの季節で冬のことを忘れることができていたのだろうか、思い出すのも苦しい冬の風だ。「堪えに堪えたもののあきらめのうた」か「生きることのあかしのうた」が、フーガ風の厳格な雰囲気で歌われる。そう、これだ。この厳しさこそ、雪国で生きる者の宿命のうただ。ここで対位法的な表現を持ってくることができるのが大中恩の才能である。
そして再び、冒頭と同じフレーズのエピローグ、季節は巡り繰り返す。大団円である。急急緩緩の構成をやってのけた大中恩には、新潟生まれとして称賛を送りたい。心底納得している。
日本伝統文化振興財団 (2005-10-21)
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都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more