ホ・アリス・ピン・イ ミステリアス・ブート
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲について書いた次の記事で、知る人ぞ知る作曲家を出す楽しさ。香港生まれカナダ人作曲家のホ・アリス・ピン・イ(1960-)、漢字表記だと何冰頤と書くそうだが、アジアっぽく言えばホ・ピン・イ、欧米風に言えばアリス・ホ、だろうか。
NAXOSではホ・アリス・ピン・イとフルネームで書かれていたのでそれに従ったが、今も活躍されている女性作曲家である。知名度は低いかもしれないけど、トロント在住の彼女はカナダでは重要な作曲家の一人と認知されているようだ。
日本でも彼女の作品が取り上げられたことがあり、2000年のアジア音楽週間では「鳴」という打楽器独奏のための曲が演奏されたそうだ。2000年8月9日のアフタヌーンコンサート、会場は横浜みなとみらいホールの小ホール、どなかた聴かれた方はいらっしゃるだろうか。
今回取り上げるのは、フルート、ピアノ、チェロのための三重奏曲、「ミステリアス・ブート」(The Mysterious Boot)である。この編成の曲をブログで書くのは実は2回めで、2011年にカプースチンの「フルート、チェロとピアノのための三重奏曲 作品86」を取り上げて以来だ。
ピアノはもちろん、フルートもチェロも好きな楽器で、僕は学生の頃、フルートとピアノとユーフォニアムをメインにして、ベースとドラム(僕)という構成のバンドで何度か演奏したことがあり、アレンジやオリジナルをやったのだが、女声的なフルートと男声的なユーフォニアムの中低音、そしてピアノという組み合わせは良いものである。まあ、これはチェロな訳だが。
「ミステリアス・ブート」は、2018年にリリースされたホ・アリス・ピン・イの室内楽作品集CDのタイトル作でもある。同じカナダ人フルート奏者のスーザン・ヘップナーのフルートを中心に、チェロにウィノナ・ゼレンカ、ピアノにリディア・ウォンを迎えて録音したもの。
電子楽器を入れた「アジアの印象」や、フルートとピアノのための「クール・ア・クール」も素敵な曲で、特にアジアらしさを感じる曲は、日本人としても聴いていて面白さがある。
そういう民族音楽的な要素ではなく、より洗練されたというか、より現代音楽的に尖った印象を持った曲が、この「ミステリアス・ブート」である。神秘的な靴、これは古代ギリシア悲劇やローマ悲劇などで、俳優が履いていた靴、ギリシャではコトルヌス(κόθορνος)、あるいはローマではコトルノス(cothurnus)と言われていた舞台用の靴のことを指す。
中でも悲劇的な運命の役を演じる際に役者が身につけるもので、背が高くなる効果もあったそうだが、ホ・アリス・ピン・イはその「ミステリアス・ブート」を履いて俳優が演技をする際に、ある種の神がかり的な状態になる、そういう効果を音楽で表現したのだ。なかなか他にない着眼点だと思う。
古代演劇がテーマなだけあって、やはりどこかお固いというか、プリミティブな力点を感じるところもある(というのも、他の曲が独特な有機的なフロウを見せるため)のだが、決して全体的に野蛮な印象になることはない。
急流のように雰囲気が変わり、ハーモニーやリズムの変化が、どこか陰気だが妙にユーモラスだったりして、捉えようのない音楽になっている。まあ古代劇ってそういう妙ちくりんなところあるよね。10分強の単一楽章の曲で、誇張したリズムや、聞き慣れないけど嫌味はない変わったメロディなど、聴きどころは多い。
スコアを見ている訳ではないし、それぞれの楽器に精通している訳ではないため推測もあるが、常に様々な特殊奏法が用いられるのも聴きどころだ。フルートはフラッターやスラップも多く、重音やフラジオもあるだろう。声を出しているところもある。ピアノも何かしら内部奏法を使っているようだ。様々な音を追求し、さらにその上でアンサンブルがあり、まったく現代音楽は忙しいななんて思いながらも、聴く方はただただその面白い表現が描くものを聴くだけ。
もともと古代ギリシア劇は神的な要素もあっただろうが、よく言う「取り憑かれたような」とか「役に入っちゃった」とか、そういう類の効果を、悲劇俳優の靴という着眼点で描く、興味深い音楽だ。聴いているこっちも、不思議なトランス感覚にハマってしまう。
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more