野田暉行 ピアノ協奏曲:日本のクラシックに逍遥す

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今年の夏はTwitterで「日本のクラシックに逍遥す」と題して、日本人作曲家のクラシック作品を聴いていた。僕は多分、一般的なクラシック音楽ファンの中ではかなり邦人作品を聴いている方だと思うが、それでも聴いたことのないものや久しく聴いていなかった曲を中心に選んだ。山田耕筰の若い頃のピアノ曲、伊福部昭の鬢多々良、三木稔の鳳凰三連。三善晃の三つの抒情と、年に一度しか聴かない大木正夫のヒロシマは以前ブログに書いた曲だが、久しぶりに聴いた。

そもそも「日本のクラシック」って何だ、と自問する。先のTwitterでは「西洋古典音楽の形式に基づいた日本人作曲家の芸術音楽の中で現代音楽ではなく古典になったもの」という意味で使っていた。古典ももともとは当時の「現代音楽」であり、それが生き残って「古典」すなわちクラシックとなるものだと解釈している。
少し話が変わるが、僕はHIP HOPが好きよく聴いているのだけど、HIP HOPの世界では「クラシック」という言葉を、名曲・名盤とほぼ同義で用いているのが面白い。英語圏では70年代~90年代初めくらいまでの有名曲を指し、日本語ヒップホップではもう少し後の日本語ラップ黎明期の名曲を指すが、韻踏合組合の「一網打尽」のリリックで「また新たなるクラシックが産まれる」とあるように、自分たちの音楽が「クラシック」になるという意気込みはどのラッパーも持っているだろう。

話を戻そう。このブログで扱っている「クラシック音楽」は、有名無名に関わらず過去の西洋芸術音楽と、現代音楽であれば「これはいつか古典、つまりクラシックになるだろうな」という曲を選んでいる、つもりだ。特に日本の作曲家の音楽は、ヨーロッパに比べて歴史が浅い分、僕も「自分が書くことでその曲がクラシックになるのに少しでも寄与したい」という気持ちを大きく持って書いているのだ。まあ、いつもそんな気合が入っているわけでもないが……。


さて、前置きが長くなってしまった。日本の作曲家、野田暉行さんが2022年9月18日に亡くなったというニュースがあった。野田暉行(1940-2022)、東京芸大名誉教授であり、当然僕は全く関わりがないけれども、結構作品を聴いているので、追悼記事として曲紹介を書こうと思ったのだ。
初めて野田暉行の名前を見たのは、ウィーン弦楽四重奏団のCDで、有名ポップスを弦楽四重奏にアレンジしたものを録音したもの。ウィーンSQは好きで、ブログには公演感想記事もいくつかあるのでぜひ。そのポップスアレンジCDで、ビートルズのHey Jude、Let It Be、Yesterdayの編曲を担当されたのが野田さんで、ハイドンやモーツァルトを思わせるウィーン古典派風の編曲には思わず笑みが溢れてしまう。野田さんにとってこの仕事がどんなものだったかは知りようもないが、ウィーンSQのファンであればモーツァルトやシューベルトを求めるのは必至。野田さんの編曲センスの良さに感服したのだ。なお、同盤には西村朗さんによるベートーヴェンやドヴォルザーク風のMichelleも入っていて、それも面白い。


僕も編曲について、あの記事この記事その記事であれこれ書いたこともあるけど、中々奥が深いものだと思う。
音楽評論家の遠山一行は、1981年に野田暉行について「ある狭い分野でのメチエの熟達ということにとどまらず、いわば、何をやっても大丈夫だという信頼感がある。野田の作品はかなり広い分野にまたがり、作風もまた必ずしも固定的ではないが、作品のもつ完成度は常に高い」と書いている。編曲というジャンルでも完成度の高さを見せられる作曲家は、やはり「何をやっても大丈夫」な作曲家なのだ。


何をやっても大丈夫な人の音楽から何を選ぼうか。夏も終わり秋も近づいている今日このごろによく似合う、野田暉行のピアノ協奏曲を紹介したい。
1977年にNHKの委嘱で作られた曲で、神谷郁代のピアノと、尾高忠明指揮N響により初演。この記事の上と下にリンクを貼っているCDは、その初演時の録音である。CDの解説では「極めて高密度に集約された1楽章構成で、過去に例を見ないピアノとオーケストラの在り方を示している」とある。
作曲当時はそうだったのかもしれない。しかし今聴けば、おそらく「いわゆる現代音楽」と言われて多くの人がイメージするもの――明確なメロディがなく、意味がわからない音ばかりが続き、小節もどこで区切れているのかわからない――の好例とも言える。こうしたものに嫌悪感を抱く人の数は、初演から50年近く経ち、どのくらい減ったのだろうか。結局は慣れの問題で、何年も、あるいは何回も聴いていれば、不自然とも思わなくなる人も多いだろう。
これはこれで楽しいのだけど、一つ問題があるとすると、こういう曲について言葉でああだこうだ表そうというのは、非常に難儀なことだということか。ある意味、言葉を邪魔にするタイプではある。


意味がわからないようでいて、それぞれに何かあるのだろうな、ということくらいはわかる。野田さんはこの曲の作曲の10年ほど前、26歳のときに「作品は、どこまでも思考の結果が書かれるのである」と語ったそうだ。何かの思考の結果が、ここではピアノが中心になりながら様々な楽器とのやり取りをすることで表明されている。
解説で「極めて高密度」と書かれるのは納得だけれども、ふと音の密度が変わる瞬間がある。まるでさっきまで喧騒の中にいたのに、通りを一本抜けたら急に静かになるような。そんな感覚がやってくる。確かに全体としてはモノや思考が詰まっている音楽、しかしそこに揺らぎがある。一定のタイミングなどなく、常に移り変わっているような。それも、いわゆる過去の名曲で見られる「明と暗」や「静と動」という軸以上に、ここでは「遠と近」、「疎と密」、「乾と湿」という感覚だ。ピアノがソロで弾いている部分でも感じるし、ピアノを含めた全体の音楽でもそう。いわゆる協奏曲の「急-緩-急」という構造は意識されつつも、何か別の機構の存在を感じるのだ。
この曲では、特に鈴(スレイベル)が絶妙なポジションを占めている。僕はこの鈴の音に、なんとなくだが、蝉の声がやかましい気怠い夏の雰囲気を見る。たまたま、今が夏の終わりだからかもしれないけど。決して「自然の美」などと言えないような音楽ではあるが、鈴の音って、やはりちょっと身近で、不思議な親近感を与えてくれる。そういう意味では、フルートのソロもそうかな、笛の音。感情の音楽ではないのに、描かれた音の風景に少し親しみが湧くのは管楽器と打楽器のおかげのようにも思う。


野田暉行作品を聴くきっかけとなったウィーン弦楽四重奏団のCDも、このピアノ協奏曲を含む作品集も、CamerataのCD。ブックレットでプロデューサーの井阪紘さんがずっと野田作品を知ってもらいたいと思ってたと熱意を語っており、CD化できてやっと役目を果たしたと安堵されている。
僕も野田作品を広めるのに、ここで少しでも力になれたら、という気持ちは同じだ。この「ピアノ協奏曲」は、日本のクラシックになったと思う。だから書いているのだ。野田さんは1985年に黒川紀章と対談した際、現代音楽について「今の現代音楽が昔と違うところは、様式感とかそういうものが全部なくなってしまったこと」と語っている。この種の(当時の)現代音楽が、21世紀も20年経った今、果たして市民権を得たのかどうかはわからないが、この音楽はただ様式感が無くなっただけでなく、無くなった代わりに何か別のものがあるのは確かだ。だからこそ、古典になりうる音楽なのだと、僕は思う。


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Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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