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シューベルト さすらい人幻想曲 D760 スヴャトスラフ・リヒテル(p) (1963年)
Twitterではよくリヒテルの話を取り上げていたが、最近はTwitterを少し控えめにしているので、ここで書きたい。久しぶりに書く「名盤への勧誘」記事。今回取り上げるEMIのリヒテル盤は、リヒテルの熱烈なファンでなくともクラシック音楽ファンにとっては結構有名な音盤だろう。今年のリヒテルの誕生日にTwitterでもこの音盤を挙げたが、ブログは文字数制限もないので書きたいことを自由に書こう。
リヒテルは大好きなピアニストで、過去ブログでもリヒテル関連の記事を書いている。ぜひ読んでみてください。
今年もそろそろ、上の2つのような(つまりメニューの“Music”ページに載せるような)リヒテル特集記事を書きたいなと思い、何の話題にするかちょっと考えていた。アニバーサリーの作曲家の話、今の社会や世界情勢に合うような話、はたまた超マニアックな話……などなど、色々考えた末、名盤紹介記事にしようと決めた。
そもそも、Twitterでリヒテルが弾くシューベルトの「さすらい人幻想曲」を挙げたのは、某現役作曲家のプチ炎上ツイートがきっかけである。「シューベルトの、、、「グレート」っていうの?、2回コンサートがあったので、2回聞いたんだけど、演奏は良かったと思う、けど全然分からなかった。。。長い。名作なの、あれ?」と発言したことに端を発するちょっとしたシューベルト騒ぎに、僕も便乗しようと思ったのだ。この話題自体について僕個人として思うところは、音楽の感想は常に自由であるべきなので、単に彼の言い方が嫌味っぽくて「オレ、売れてる作曲家だけど古典知らないんだよね」という地獄のミサワ風の鼻に付くガキっぽさが感じ悪くてダサいとは思ったが、まあ別に自由な感想で結構なことである。しかしまあ、彼の発言を非難するにしても擁護するにしても、本題からズレた極端におかしい意見を取り上げてはああだこうだ文句を言い合うのが目に入ってきて、ちょっと見てて苦しかった。どう考えても本題本質は彼の大人げない言い方でありそれ以上でも以下でもなく、現役作曲家は古典を知るべきか否かとか、過去の巨匠を非難するのは良いか悪いかとか、周辺の話題ばかり盛り上がり、やはりTwitterはマジメな議論に向かないなあと思った次第である。
ともあれ、シューベルト作品は長い。これは本当のことだ。シューマンが評した「天国的に冗長」という名言は、村上春樹が『海辺のカフカ』で用いたこともあり、多くのライトな音楽ファンにも有名な言葉となってしまった。村上春樹には責任を取ってもらいたいのだけど(そんな記事もあるので興味があればぜひ。昔の記事です)、シューベルトの信者たちは何卒「シューベルトの音楽が長いだなんて!けしからん!」と怒るのはシューマンに免じて控えてもらえると嬉しい。確かにファンにとっては、もちろん僕も含めて、シューベルトのような楽しい音楽の時間はあっという間。短く感じることも多いし、もっと続いてほしいとさえ思うこともある。でも実際はグレートに限らず、長いものは長い。リヒテルもそう言っている。引用しよう。
私が学生時代に最初に弾いたシューベルトの作品はさすらい人幻想曲でした。続いてニ長調ソナタOp.53。ある日、女学生が弾いているのを聴いたのです。ひどく長く、退屈で、とても耐えられなかった。(続)
ほら、リヒテルも長いし退屈だって言ってる。続きを見てみよう。
(承前)シューベルトがあんなに退屈なわけがない。そこで私は、このソナタを自分で弾いてみることにしたのです。そしてある日、よくあることですが、「次のコンサートはいつですか?」と訊かれたので思わず「20日後です」と答えてしまい、続いてプログラムも訊かれたので「シューベルトのニ長調ソナタです」と答えてしまいました。それから私はこの曲を勉強し始め、コンサートでは素晴らしい演奏ができました……。
長い、退屈、耐えられない。いや、シューベルトの音楽がそんなはずはない。よし、自分でもやってみよう……というね。このメンタリティ、この心意気がリヒテルの尊敬すべき点である。引用文のソースは以前ブログでも取り上げたJürgen Meyer-Jostenの著述。前に書いた記事ではシューベルトの話題はほとんど取り上げなかったけど、リヒテルはシューベルトについても色々と語っている。今回のメインである「さすらい人幻想曲」について語っている部分を引用しよう。
シューベルトの「さすらい人幻想曲」については、学生時代にネイガウスの下ですでに演奏しましたが、本当の意味で自由に演奏できるようになったのはずっと後になってからです。この曲はアカデミックに弾くことはできません。他のいくつかの作品と同様、危険を冒す必要があります。シューベルトはリストに大きな影響を与えただけでなく、主に歌曲を通じて、ワーグナー、特にワルキューレ、タンホイザーにも影響を与えたと私は思っています。
記録によると、ネイガウスの弟子たちによる演奏会、通称ネイガウスの夕べで(さながらシューベルティアーデである)、リヒテルは1938年か1939年に「さすらい人幻想曲」を弾いたようである。ちなみにその時はラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」と「道化師の朝の歌」も併せて弾いている。1940年代、50年代でも演奏会で取り上げ続け、1957年のモスクワ音楽院Liveは「モスクワ音楽院創立150周年記念BOX 27CD」に入っている。1962~63年にかけては相当回数演奏しており、本腰を入れて取り組んだことがわかる。1962年11月のモスクワLiveがProfilレーベルの没後20周年BOXや先述のモスクワ音楽院BOXに、1963年2月のロンドンLiveがBBC Legendsに、1963年4月のブダペストLiveがBMCのリヒテル・イン・ハンガリー14CDに、それぞれ収録されている。1998年にリリースされたDG盤「リヒテル イン・メモリアム 1959-1965」では、シューベルトのレントラーとアレグレットが収録されているが、これは1962年のフィレンツェLiveで最後の演目であった「さすらい人幻想曲」の後のアンコールとして演奏されたものだ。このように、1967年までは主要レパートリーだったが、その後は長らく取り上げない時代が続き、最晩年である1993年に再びレパートリーに入れている。
モスクワ音楽院創立150周年記念BOX 27CD
スヴィヤトスラフ・リヒテル/モスクワ音楽院ライヴ1951-1965
没後20年記念BOX 10CD
リヒテル・プレイズ・シューベルト
BBC Legends
Richter – Beethoven, Schubert, Schumann
BMC Records
Richter in Hungary 14CD
リヒテルが弾く「さすらい人幻想曲」の演奏の中で最も有名なものが、記事冒頭で挙げている1963年2,4月のセッション録音、EMI盤である。リヒテルが自分で言うところの「本当の意味で自由に演奏できるようになった」時期がいつのことを指すのか、具体的に示されてはいないが、この演奏を聴けば誰しもリヒテルの本領が発揮されているとわかるはずだ。
Twitterでは「凄すぎて言うことなし」と書いて、次のツイートで「僕はナンバーワンを決めるのが不得手で、どれも特別なオンリーワンの精神で聴くけど、これは本当に凄い。とにかく中身が濃い、そして自由でもあり、迷いも惑いもなく音楽を奏でる、リヒテルらしい演奏」と書いた。正直これ以上書くことはないのが本音だ。リヒテルはライブ録音でも素晴らしいものが沢山あるが、このパリのセッションは何テイクしたのだろうか、知らないけれども、不要なミスや音質の悪さなど鑑賞の邪魔になるものが一切ないのは大きい。リヒテルがこの音楽に対して異常なほどに高い集中力をもって臨んでいることが伝わるし、鑑賞者も同じように集中して聴き取ることができる。いや、どうにも集中してしまう、と言ってもいいだろう。
リヒテルも語っている通り、「さすらい人幻想曲」はアカデミックに弾くことはできない、危険を冒す必要がある曲だと思う。堅実に、生真面目に歩もうとするのではなく、崩壊するリスクを取ってでも思い切って攻めないと魅力が十分に出ないのかもしれない。技術的な困難さもある。シューベルト自身が上手く弾けずに苛立った逸話も残るように、シューベルトの時代には非常に困難だったろうし、その当時だけでなく、それなりに時を経て機械的に正確に弾くことができるピアニストが増えた現代でも、同じように言えることだろう。もちろんリヒテルの時代と、21世紀も四半世紀を過ぎようとしている現代とを比較したら、ピアニストの平均的な技術の力量は異なっているだろうが……ともかく、リヒテルのこの演奏は、危険を冒してでも挑戦し、その結果として成功した例だと言える。『リヒテル 魅惑の鍵盤』の著者で、ピアニスト/音楽学者だったヴィクトル・デリソンは、その著書の中でリヒテルの長所と、その反面にある危うさについて書いている。この本、ちょっと話が複雑なので要約して言うと、リヒテルの長所とは「自発的な情熱と決意をもって芸術に自らの全てを捧げること」と「実験的な創意工夫で独自の解決策を強く表現すること」であり、またそれは同時に、制御できず均衡を失うリスクと、独自のコンセプトに固執して芸術の印象を小さくするリスクがある、と指摘している。リヒテル自身が「危険を冒す」というのは、デリソンが言う「リヒテルの危うさ」と重なる部分もあればそうでない部分もあろうが、この1963年のセッション録音では、幸運にもその危うさを乗り越えて、長所の方が最大限に発揮されている。
リヒテル : 魅惑の鍵盤(V.デリソン著; 中本信幸訳)
リンク先は英語版(Viktor Yulyevich DELSON, Sviatoslav Richter: 1961)
いくつかのライブ録音を聴けばわかるが、ライブは一発勝負だし、先にも書いたがこの曲はヴィルトゥオーゾ的な困難さもあるので、他のシューベルト作品以上にミスや失敗も生じやすい。ミスそのものは悪ではないとしても、ミスしたことがその後の演奏に良くない影響を与えてしまうこともある。このセッション録音はそうしたリスクを回避し、コントロールを失うことなく自らの全てを音楽に捧げることができている。3楽章プレストの冒頭などリヒテルらしさ全開の演奏、技術をひけらかすようなタイプでは決してないが、パワフルで鮮やかな指捌きで溢れんばかりの感情を表現する、さすがである。
シューベルトのピアノ作品は、旋律においても和声においても、本当に豊かな色彩に満ちていて、それらの要素が複雑に絡み合っている。そうでありながら、有無を言わさぬカンティレーナが音楽を支配している。リヒテルの演奏は、そうした事柄を生き生きとリアライズする。明るく元気で活力漲る表情から、耐え難い孤独に嘆き悲しむ表情まで、とにかく壮大に表現する。シューベルトは長く退屈なばかりではなく、実は多種多様な顔を持ち、ときに繊細でときに大胆で、非常に多面的であるということをリヒテルは見抜き、その素晴らしさを伝えるために自己を没入させて演奏する。もちろん、リヒテルのこのような演奏スタイルがあらゆる作品で成功しているとは言えないが、このさすらい人幻想曲の録音では完璧なほどに成功を収めている。なぜだろうか。モーツァルトの時代の幻想曲とは異なり、シューマンの時代の幻想曲を先取りするかのようなロマン的な幻想曲である「さすらい人幻想曲」は、シューベルトのピアノ作品の中でも少し異質なものかもしれない。そしてまた、どちらかと言えば、何でも器用にこなし変幻自在の音楽をするピアニストというよりは、芯のあるスケールの大きな音楽をするリヒテルにとって、技術においてもイメージの面でも至極多面的な作品というのは、異質だったのかもしれない。その異質さ、リスクを伴う「いつもとは少し違うこと」への挑戦が、シューベルトとリヒテル、両者のピアニズムにおいて一致したのだろう。失敗の危険を冒してでも、全身全霊でシューベルトの世界に入り込み、まるで両者が同一化したかのような音楽が完成した。シューベルトの多様性を持ちながらも、まるで4つの楽章がすべてひとまとまりであるような、初めの音と最後の音まですべて分かれることなく繋がっているような、壮大なモニュメントを打ち立てたのだ。
こんなのは僕の妄想であって、主観的過ぎるとか、事実に即した科学的・客観的・論理的な評論ではないとか、そんな風に言われてしまうかもしれない。でも「幻想曲」の話をする上では、妄想と事実と、どちらが適しているだろう? まあ冗談はともかく、別にリヒテル以外にも良い演奏は沢山ある、カーゾンもフィッシャーも良い、有名曲なので他にも様々な素晴らしい演奏に出会える。ただ本当に良く、シューベルトの音楽の「本質」、周辺の諸々にだって価値はあるだろうが、これが、これこそがシューベルトの「さすらい人幻想曲」の本題、本質なんだろうと思わせるものを、リヒテルは提示してくれる。「これこそが本質だ」とかそういうことを言う輩は大体怪しいけど、でもきっと、核心と外郭があるなら、この演奏は核心を突くものだと、僕にはそう思われる。ちなみに、以前Twitterでも挙げたけど、こんなこと言ってるくせに僕が一番思い入れのある「さすらい人幻想曲」の録音はリヒテルではない。知りたい人はフォローしてくださいね!
残念ながら先月亡くなった巨匠、マウリツィオ・ポリーニの録音も素晴らしい。リヒテルはポリーニの弾くさすらい人幻想曲の実演を聴いて、感想を手記に残している。1977年のグランジュ・ドゥ・メレ、ピアノ・ソナタ第14番と第20番も演奏された。リヒテルの感想を引用しよう。
イ短調ソナタの冒頭は素晴らしく、洞察力に満ちていたので真の音楽の饗宴を期待したが、第2楽章以降はすべてがやや同じようなものになってしまった。さすらい人幻想曲もイ長調ソナタさえも同様だと言える。ポリーニはシューベルトの作品を、まるでプロコフィエフか他の20世紀の作曲家が書いたかのように演奏している。
ポリーニの演奏に対する感想からも、リヒテルが「シューベルトの変化に富む音楽性」や「シューベルトの作品をシューベルトが書いたように演奏すること」を重視していたことがわかる。Twitterではポリーニ追悼としてシューベルト:さすらい人幻想曲&シューマン:幻想曲の1973年録音DG盤を挙げた。そのジャケットに用いられている絵がドイツの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの『雲海の上のさすらい人』(Der Wanderer über dem Nebelmeer)である。ポリーニのような孤高の天才ピアニストであれば、きっとこのような景色を眺めることができたことだろう。リヒテルもまたさすらい人であった。精神的にもそうだろうし、実際に世界中を放浪していたリヒテルはモンサンジョンから「さすらい人リヒテル、生まれながらの遊牧民」と言われている。常人には見られない景色を見た天才たちから、雲海の上から眺める景色をおすそ分けしてもらえるのは、芸術鑑賞の楽しみの一つだ。
これはポリーニの弾く1973年録音。
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more