クローリー iPieces
iPiecesというタイトル、これは良い。良いというか、してやられたというか、この手があったかと。他に誰もやってないかな。最初のIだけを小文字にする、Apple社のスタイルを導入した曲名。上手いことやったなあ。いや、意外と他にもあるかもしれん。iSymphonyとかないのか? そういう名前のアプリならありそうだ(笑)
最初のiが小文字、ただそれだけで現代人に何かを思わせるのだから、現代音楽が取り扱う題材として適していると言える。ベートーヴェンの時代には出ないアイディアなのは間違いない。iPhone、iMac、iPadなどApple社の製品が持つ“i”には色んな意味や意図込められているそうで、どのくらいの人がその意味や意図を知っているかはわからないけど、実際に多くの人が見慣れた表現で、今やi◯◯という表現自体は十分に世の中に浸透しているだろう。イギリス生まれ、カナダで活動した作曲家のクリフォード・クローリー(1929-2016)が2010年に作曲したピアノ独奏曲iPiecesは、別にApple社のために作ったものではない。現代に生きる多くの人にとって、この小文字の“i”が何か特別であり、「そこに何かを込めることが可能なもの」として認識されている現代だからこそ成り立つタイトルであり、これは21世紀の時代精神を描くことができると言っても過言ではないだろう。
いや、実際にクローリーがiPhoneとかを意識して付けたかどうかは、どこにも書かれていないので知らないけどね。クローリーはロンドンの王立音楽院とトリニティ・カレッジで音楽を学び、レノックス・バークリーとハンフリー・サールにも師事した作曲家。1973年までイギリスで教師を務めながら作曲を行い、カナダ移住後はクイーンズ大学で教鞭を執りつつ、幅広いジャンルの作品を残した。
冒頭で挙げているアルバムは、ピアニスト、モーリーン・ヴォルク(1959-)と彼女のアンサンブルが録音したクローリーのピアノを含む作品集である。ヴォルクはサッシャ・ゴロドニツキや練木繁夫に師事したカナダのピアニスト。クローリーとは2002年に出会ったそうだ。このiPiecesという作品はヴォルクに献呈されている。3曲からなる組曲で、第1曲iOpener、第2曲iDeal、第3曲iDearsというタイトル。この各曲も良いタイトルだ。さっきからそればっかり言っているが、良いものは良い。音楽ももちろん素晴らしい。
第1曲、タイトル通りのアイオープナー、ファンファーレのように始まる音楽は新しい世界の幕開け。音楽性は印象派か、もっと近いのはサティやプーランクのような雰囲気だろうか。この音楽そのものが何か新しい世界を開くような革新的なものであるということはなく、そうではなくて個々人が目を見開ような新しい体験をしたときの様子、その小さな情景が描かれている音楽だと思う。個々のIndividualな世界、しかしそれは無限に広がっている。“i”の意思を感じる。
第2曲は「理想」、第1曲よりもう少し古風な音楽になり、印象派のピアノ独奏曲のようだ。ゆっくりしたワルツは、夢と現実、個人と世界の境目が曖昧で、ここでは小さな理想郷を成している。美しい。
第3曲、私の親愛なるアイディアたち。様々なアイディアが散りばめられた音楽である。颯爽と歩いてみたと思えば、立ち止まってうっとりしてみたり、上品にワルツを踊ったかと思えば今度は気取ってタンゴを舞い、しまにはポルカまで。ちょっと黙って考え出しすやいなや、けたたましく終わる。まとまりのない考えが浮かんでは消える。意味なんてないかもしれないけど、思い浮かぶあれこれの全てが自分にだけは愛おしい……なんてことを思った。
合わせて15分もない短い曲なのでぜひ気軽に聴いてみてほしい。もしかすると一人が一つの板状の電話を持つ時代は近い将来終わるかもしれないし、i◯◯という表現も消えていくかもしれない。僕が唯一持っているApple社製品はiPodだが、それももう時代遅れになってしまったね。しかしここでは芸術として、“i”の意思は永遠に残るだろう。いや普通に芸術だからとか関係なく、iPhoneよりiPiecesの方が先に世の中から消えそうだけど。そんなこと言ったらいけないね。良い音楽は後世に伝えたいし、だからブログ書いてるってのもあるし。まあ、僕はこれからもAndroid派だけどね。
スティーブ・ジョブズ I 単行本
ウォルター・アイザックソン (著), 井口 耕二 (翻訳)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more