リッカルド・ムーティ、リヒテルを語る――音楽の父リヒテル

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このブログのTwitterアカウントを開設して何か月か経った。そちらの方では2019年に出た新譜の中でお気に入りのものを紹介したりしていたのだが、今年に入ってから「そういえばこれも新譜だったな」と思い出したものがある。それはスヴャトスラフ・リヒテル独奏、リッカルド・ムーティ指揮フィレンツェ五月祭管のベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番、1974年の録音。同曲は後にセッション録音もあり有名だが、この74年録音盤はリヒテルとムーティの共演の秘蔵録音を小出しにしているMaggio Liveレーベルが、2018年のモーツァルトの録音に続いて出したベートーヴェンで、一応2020はベートーヴェン・イヤーということもあり、取り上げておこうと思ったのだ。


昨年、オススメの新譜として紹介しなかったのは、多分僕は以前からこの録音を放送されたもので録っていたからかもしれないなあ、と。と言ってももう10年以上前だろう。ロシアかイタリアの局だと思うが、どこだかは忘れてしまった。イタリアかな? 放送ではアンコールに3楽章の再演がある。その部分はCD化されていないのだけれど、CDの方はリマスターがガッツリ入って、放送よりもずっと鑑賞しやすくなっている。まあイタリア(ロシアもだけど)の放送は往々にして音質が酷いので、これは嬉しい。感謝。


リヒテルとムーティの関係は意外と深い。ムーティはインタビューなどで何度となくリヒテルの話を出しているが、2013年にムーティの自伝が出てからはいっそう多くの人の目にするところとなったのではないだろうか。例えば、自伝にもあるように、リヒテルとムーティの初共演の際、レジェンドを前に畏怖するムーティに対し、リヒテルが共にピアノを弾こうと誘った話はだいぶ有名になってきたと思う。ムーティが語るリヒテルとのエピソードは面白いので、ここに少しまとめたいのだが、自伝からそのまま書いてもしかたないので、自伝やその他の日本語の記事で省かれているであろう記述も含め、今回は主にベラルーシ出身シカゴ在住ジャーナリストであるS・エルキンによるムーティのインタビューを参考に紹介したい。自伝とかぶってるところも多いけども、でもこの記事を日本で話題にする人はそうそいういないでしょうし、ムーティあるいはリヒテルのファンはぜひご一読を。エルキンのインタビュー記事の元ページはこちら

リヒテルに試されるムーティ


1968年、リヒテルは初共演となる若き指揮者リッカルド・ムーティが、共演に足る本物の音楽家かどうかを確認したかった。ムーティは当時、指揮のコンクールで優勝し、ミラノでピアノを教えていた頃である。リヒテルはムーティに会いたいと打診するものの、会いたい理由は特に伝えない。これは怪しい。ムーティは、自分がナポリ人だから顔を見たくないのかと思ったと笑いながら語った。


もちろんムーティは、リヒテルが自分のことを試そうとしているとわかっていたので、共演する曲のピアノを十分に練習してきた。シエナの音楽院で通訳にリヒテルを紹介されると、そこには2台のスタインウェイのグランドピアノが置いてある。ムーティは「当たりだ」と。リヒテルは“Prego”(イタリア語で「どうぞ」の意)と言ってピアノを指差し、モーツァルトのK.450を弾くことになった。リヒテルがソロパート、ムーティがオーケストラパートだ。

弾いている間、リヒテルはムーティをよく観察していたそうだ。モーツァルトに続いてブリテンを弾き終えると、リヒテルは通訳を呼んで、「あなたがピアノを弾いたように指揮するなら素晴らしい音楽家だ。共演しましょう」と言った。シエナの雨の夜、ムーティは大喜びで帰路についた。この話は自伝にもあるし、HMVの商品紹介ページにもある。

謙虚な巨匠――ラヴェル 左手のための協奏曲


リヒテルの時代であれば、若い指揮者だってピアノを弾けて当然だという認識だが、ムーティいわく今はピアノも作曲も学ばずすぐに指揮しちゃって、まったく指揮者もずいぶん「モードな」職業になったもんだとぼやいている。ムーティももう年長の巨匠のポジションである。楽器が下手ならヘタクソ扱い、でも指揮は簡単にできてしまう、今の時代はトスカニーニの言葉「腕を振るのはロバでもできる、音楽を奏でるのは一握り」を忘れていると後進たちに苦言をチクリ。


ムーティが感銘を受けたリヒテルの態度として、ジェノヴァにてラヴェルの左手のための協奏曲を共演した際のエピソードがある。このときリヒテルはミスをしたそうだが、それでも崩壊はせずに乗り切り、むしろスタンディングオベーションだったそうだ。しかし納得いかない巨匠は、再度演奏させて欲しいとムーティに頼む。オケは嫌がったそうだが。しかしアンコールで再度曲を丸ごと繰り返し演奏し、リヒテルは見事リベンジを果たした。翌朝ムーティはリヒテルとジェノヴァ駅で会い、その時にリヒテルはムーティにラヴェルのスコアを出すように求め、ムーティが渡すとページをめくり始め、自分がミスしたところにペンでサインをし出した。「今後やる度に、ここでリヒテルがミスしたと思い出してもらえるように」と。ムーティはこのスコアのリヒテルがサインした部分に、自分でも鉛筆でコメントを書き、いつかこのスコアを受け継ぐ人はいきなりリヒテルのサインがあってびっくりするだろうから、と語る。大巨匠になっても、現状に満足せずベストを尽くすこと、謙虚さを持ち合わせること、リヒテルのすごさを知ったそうだ。

「スコアは読めませんか?」


リヒテルはムーティに、暗譜ではなくスコアを置くよう勧めた人物でもある。ムーティはいろいろなインタビューなどでもスコアを置くことを語るし、イタリアオペラをきちんとスコア通りにやろうと改革してきた人物でもある。トスカニーニが暗譜なのは「目が悪くて覚えるしかないから」とトスカニーニ自身が言っていたとムーティは語る。あるいはムラヴィンスキーは暗譜でも、彼はチャイコフスキーのスコアを熟知していただろうし、逆にストラヴィンスキーは自分の曲だってスコアを見て指揮した。1960年代末から70年代頭は暗譜が流行したと語る。

大きなきっかけは、1972年ザルツブルク、ムーティがリヒテル&ウィーン・フィルとシューマンの協奏曲を演奏したときである。これは音盤もあり、僕も愛聴盤のひとつだ。このコンサートで、後半にケルビーニのレクイエムをやる際、暗譜で指揮したムーティ。夕食時にリヒテルが訪れて来て、「リッカルダ(ロシア人音楽家は皆こう呼ぶらしい)、スコアは読めませんか?」と言った。これは啓示だったと語る。このリヒテルのセリフは自伝と若干異なるが、まあ意味は同じだ。

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このリヒテルの言葉は、暗譜で指揮する際に覚えたものを忘れやしないかといつもちょっと心配だったムーティを再考させた。スコアを置くことが重要なのではない、スコアを知ることが重要なのだ……これは真実だろうが、しかしスコアは自分に自信を与え、何ヶ月も共にいてくれる。音符は友達になり、語りかけてくれる……とムーティはスコアの重要性を語る。リヒテルと話してから、ムーティはスコアに従うことを意識した。レパートリー、もう完璧に頭に入っている「セビリアの理髪師」序曲でも「運命の力」序曲でも、全て。全てでやらなければ意味がないのだ。音符に従い、スコアに従うこと。ムーティはリヒテルから謙虚さを学んだと語っている。

オペラを愛するリヒテル


リヒテルがワーグナーを愛していることは、リヒテル関連の書籍でもよく語られる。河島みどりさんの『リヒテルと私』から、リヒテルが好きな作曲家を訊かれて、ワーグナーと答えたときのコメントを引用しよう。

「彼の作品は音楽、文学、絵画、演劇とすべての芸術の凝縮したものだ。ワーグナーに匹敵できるのはシェークスピアしかいないだろう。私がワーグナーに心酔しているのは彼がピアノ曲を書かなかったからかもしれないけどね。その他にはショパン、彼は音の詩人で音楽の最高峰を極めた人。それとドビュッシー、彼はワーグナーのように音楽を超えて自然に到達した人だ。だが、正確に答えるなら、すばらしい作品を作った人は皆、好きだ」


1994年にムーティがスカラ座でワーグナーの「ワルキューレ」をやった際、リヒテルは第2幕と第3幕の間に来て、ピアノの前に座ってワーグナーを弾き始めたそうだ。普通に考えたらなかなか迷惑な爺さんだが、ムーティとリヒテルの間柄がわかるエピソードでほほえましい。

ムーティの結婚式(1968年)でも、リヒテルは大事な主賓として招待された。当日はリヒテルが即席カメラマンを務めたそうだが。まだ出会ってそう経っていない頃である。ニーノ・ロータとリヒテルがピアノを弾いてイントロクイズをお互いに出し合って盛り上がったそうだ。イタリアオペラなどの名曲から、どんどんマニアックな曲になっていき、ロータはともかくリヒテルがとてつもなく詳しいのに驚くムーティ。それを延々とやり、もうゲストも解散して、ムーティ夫妻も荷物をまとめ始めた頃、リヒテルとロータは新郎新婦が去っていくのを見ながら、アイーダの「勝ちて帰れ」を連弾した。このアイーダの話は多分自伝にもなかったと思うが、愛情あふれるエピソードだと思う。

音楽の父


ムーティのオーケストラ・レパートリーにスクリャービンがあるのもリヒテルの影響。リヒテルの弾くスクリャービンのピアノ曲を聴いて、スクリャービンの交響曲を勉強しようと思い立ったそうだ。また、1968年4月、リヒテルはムーティに、「リッカルダ、君はシュトラウスの交響的幻想曲『イタリアより』を指揮しなければならない」と忠言した(この曲は僕も好きな曲ではるか昔ブログで取り上げたので知らない方はぜひ読んでください。直前のリンクで読めます)。その頃のムーティはこの曲を知らず、すぐスコアを取り寄せた。ムーティはベルリン・フィルとこの曲を録音している。リヒテルはムーティに、勉強したノートを送ってくれと頼んだそうだ。それほど好きな曲だったのだろう。後にムーティは、この曲が自身のキャリアを決定づけた曲の一つだと思い返す。この話は2015年のHMV「ベルリン・フィル・ラウンジ」のムーティのインタビューでも語られている。

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また、プロコフィエフについてもリヒテルのアドヴァイスがあった。かつてムーティがリヒテルに「プロコフィエフの古典交響曲をやりたい」という話をすると、リヒテルは少し考えて「シンフォニエッタにしよう!」と提案した。ムーティは77年にフィラデルフィア管と録音。誰もやらない曲だとムーティは語る。実際、77年にプロコフィエフのシンフォニエッタを録音した有名オーケストラなどほぼないだろう。

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「ドン・ファン」ではなく「イタリアより」、「古典交響曲」ではなく「シンフォニエッタ」、リヒテルは王道より横道を好んだ。聴衆と喜びを分かち合えるであろう音楽に、特別な注意を払った。また音楽でも人生でも「不意」、予想外、サプライズを好んだ。リヒテルとのリハの際に20分も転調の話し合いをし、転調が予想外に、不意に見えるように、完璧な音を追求したというエピソードも語っている。ムーティ夫人にリヒテルが花束を持って来たときも渡す瞬間まで背中に隠していた。もし50m離れてても見えてしまったら効果は失われると。


リヒテルは自分にとって「音楽の父」の一人だったとムーティは語っている。リヒテルの巨大な才能と音楽に対する倫理的なアプローチ、常に自分に正直で、結果に満足せず、常にもっと欲しがり、常にベストを尽くす……その姿勢は驚くべきもので、彼は音楽でも人生でも詩人だった。


【参考】
河島みどり『リヒテルと私』(草思社,2003)
田口道子訳『リッカルド・ムーティ自伝: はじめに音楽 それから言葉』(音楽之友社,2013)
セルゲイ・エルキンのブログ記事 https://sergeyelkin.blogspot.com/2014/04/blog-post_10.html(最終確認2020/01/29)

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