ルドルフ・ゼルキンとモーツァルトのピアノ協奏曲第27番ーー失われた7小節

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2022年9月5日、ラルス・フォークトが亡くなった。悲しい。まだ51歳。癌で闘病中だったが、前向きに音楽を続ける姿勢は多くの人を勇気づけたことと思う。何か聴こうと思い、彼の演奏するモーツァルトのピアノ協奏曲第27番K.595を選んだ。未聴だったBBC Radio3のエアチェック音源で、アンドリス・ネルソンス指揮バーミンガム市響、2014年1月のLive録音。モーツァルトが最後に残したピアノ協奏曲で、またモーツァルト自身が最後に演奏した曲と言われている。フォークトがこの曲について語った言葉をTwitterに書いたので、興味ある方は読んでください。

彼の演奏は変わっている、と思う。特にベートーヴェンやモーツァルト。伝統的、正統的とは違う、異次元に位置する古典派音楽に聴こえる。しかし、彼がモーツァルトに傾倒したのは、ドイツ正統派ピアニズムの権化とも言えるような巨匠、ルドルフ・ゼルキン(1903-1991)の弾くピアノ協奏曲第27番K.595を聴いたのがきっかけだというから驚きだ。Mikikiのインタビュー記事に書いてあった。「ゼルキンのピアノを聴いたとき、心臓に楔が打ち込まれるような衝撃を受けました」と語っている。



ゼルキンによるモーツァルトのK.595の録音は複数ある。有名なのは2つで、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管との1962年1月28日録音(Sony)と、クラウディオ・アバド指揮ロンドン響との1982年5月録音(DG)。ややマイナーだが、盟友アレクサンダー・シュナイダー指揮コロンビア響との1955年録音もある。↓のリンクは今書いた順に貼ってある。

モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調、第27番変ロ長調
ゼルキン(ルドルフ) (アーティスト, 演奏), モーツァルト (作曲), & 4 その他

Piano Concerti 21 & 27
London Symphony Orchestra (アーティスト), & 3 その他

Piano Concertos 23 & 27
Serkin (アーティスト), Mozart (アーティスト), Clso (アーティスト), & 1 その他


フォークトが衝撃を受けたというゼルキンの弾くピアノ協奏曲第27番が上のどの演奏だったかは不明だが、ゼルキンとK.595にはなかなか興味深いエピソードがあるので、この機会に紹介したい。この曲の第1楽章における「失われた7小節」(47~53小節)が発見されたのは、実はゼルキンのおかげだという話。最初のきっかけは1936年2月23日、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルとの共演である。これはゼルキンのアメリカ・デビュー公演であり、実はこの演奏の録音も放送音源で残っているそうだが、僕は聴いたことがない。ニューヨーク・フィルにとって、K.595はこれが初演であった。ゼルキンはリハーサル時から、トスカニーニの2楽章のテンポが速すぎることに不満で、コンサートが終わってスイスに戻ると(アメリカ移住前のゼルキンはナチスを避けてアドルフ・ブッシュのいるスイスに住んでいた)、ジュネーブのマルテ・オネゲル氏に頼み、すぐにベルリンのプロイセン国立図書館からこの曲の手稿を取り寄せた。それを勉強し、結局のところテンポに関してはトスカニーニの言う通りだったと納得するものの、第1楽章に見覚えのない7小節を発見する。47小節目以降の部分、↓の画像を参考にしていただきたい。1枚めはベーレンライター版(1960年)、赤い部分がその7小節。2枚めはその部分がないブライトコプフ版(1879年)。

Bärenreiter, 1960
Breitkopf, 1879


このベーレンライター版はいわゆる『新モーツァルト全集』(NMA)であり、ブライトコプフ版は『旧モーツァルト全集』と呼ばれるものである。この7小節は、モーツァルト自身が最終版を書き写す際に追加した部分だが、それを当時の出版社が拾い忘れるミスを犯してしまい、以来そのミスのまま何代も続いてしまったとのこと。1960年のNMAによるベーレンライター版の出版をもって「失われた7小節」が復元されたということになるが、そこに至る道程は容易ではなかったようだ。というのも、20世紀半ばに音楽学者らがK.595を研究しようとした際には、モーツァルトによる最終版の自筆譜は消失していたのだ。ベルリンのプロイセン国立図書館はその事実を公表せず、また閲覧そのものも禁止にしていた。『ニューグローヴ世界音楽大事典』の編集者で音楽学者のスタンリー・セイディは、NMAの編纂活動の困難さについて、第二次世界大戦のために資料が疎開されていたこと、また東西分裂の影響で国立図書館所蔵の莫大な自筆譜コレクションのほとんどが1980年まで参照できなかったことを挙げている。実際にNMAの編纂委員であり、K.595を担当した音楽学者ヴォルフガング・レームによるスコア付属の解説を引用しよう。

KV595:モーツァルトの最後のピアノ協奏曲の自筆譜は、ベルリンの旧プロイセン国立図書館の所蔵品ですが、第二次世界大戦の混乱の結果、今日では失われたと見なさざるを得ません。ピアニストのルドルフ・ゼルキンが戦前に楽譜をコピーしてくれたおかげで、自筆譜に基づいた協奏曲を出版することが実現しました。これはアルトゥーロ・トスカニーニの遺品であり、紛失したと思われていましたが、指揮者のジョージ・セルとピアニストのパウル・バドゥラ=スコダの努力により再発見されました。この写真製版のマイクロフィルムは、編集者が特に感謝したいバドゥラ=スコダ氏の仲介で、NMAにおけるK.595の編集目的として編集者に送られました。このルドルフ・ゼルキン所有のコピーとマイクロフィルムに基づき、パウル・バドゥラ=スコダと編集者は、バドゥラ=スコダが以前から指摘していた元の楽譜の二つの疑わしい箇所を明らかにすることに成功しましたが、ここでもう一度説明する必要があります。

上述の文章も、その後のより詳しい解説も、Digitale Mozart-Edition(DME)として国際モーツァルテウム財団が全てインターネット上で公開しているので、興味のある方はどうぞ。実は1919年には、既にこの7小節追加版がライプツィヒのシュタイングレーバー社から出版されていて、これは明らかにベルリンのプロイセン国立図書館の自筆譜を参考にして編集したものだそうだ。しかし、このスコアはすぐに絶版になってしまった。ということで、自筆譜はずっとベルリンの図書館にあってのも事実だし、少なくともゼルキンが取り寄せをした1936年まではあったのも事実だ。


さすがに21世紀なって旧全集の方で演奏することは少ないだろうから、1楽章の当該部分がカットされた演奏はほぼないと思うけれども、古い録音なら多々ある。ゼルキンとトスカニーニの共演より古いシュナーベル独奏バルビローリ指揮ロンドン響の1934年録音(上)には、当然その7小節はないし、ベーレンライター版の出版(1960年)以前であればほぼ全て、例えば1956年録音のハスキル独奏クレンペラー指揮ケルン・ギュルツェニヒ管(下)も7小節はない。

Mozart: Piano Concerto No 27
Artur Schnabel (アーティスト)

Klemperer Rarities: Montreux
Makito



ただ、1960年以降であっても、僕の大好きなリヒテルは、ブリテン指揮イギリス室内管(1967年、上)でもバルシャイ指揮モスクワ室内管(1968年、下)でも古い楽譜のままで、さすがソ連って感じがする。

Sviatoslav Richter Plays Mozart Concertos 20,27

Richter plays Mozart: 4 Piano Concertos
Benjamin Britten, Lorin Maazel, Sviatoslav Richter and USSR Symphony Orchestra



完璧に調べたわけではないが、1961年だとまだ旧版ばかりな印象。1962年以降になると新版録音が増える。カサドシュも、1961年のシューリヒト指揮ウィーン・フィルのザルツブルク音楽祭Live録音(上)では旧版だが、翌1962年のセル指揮コロンビア響(下)では新版。特に独墺勢はこの年あたりからはこぞって新版使用になってくる。

モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番&第27番
カサドシュ(ロベール) (アーティスト, 演奏), モーツァルト (作曲), & 3 その他

Mozart: Piano Concertos Nos. 23 & 27
Robert Casadesus, Columbia Symphony Orchestra & ジョージ・セル


ちなみにゼルキンはというと、オーマンディ指揮フィラデルフィア管(1962年)は当然ベーレンライター版を使用した7小節ありバージョンだが、それより前のシュナイダー指揮コロンビア響の1955年録音でも、なんと7小節ありの録音になっている。全て調べた訳ではないが、ベーレンライター版の出版前にこのバージョンで録音しているのはゼルキンくらいだろう。まあ、そんなところに注目して聴くと古い録音も色々歴史を感じられて、いっそう面白い。18世紀末から長きにわたってモーツァルトの修正が活かされないまま演奏され続けてきたK.595、もしゼルキンが1936年に取り寄せていなければ、今でもこの部分は聴けていなかったかもしれない。ありがとうゼルキン。

【参考】
Keller, J.M., “Toward a Correct Edition” Program notes for New York Philharmonic, 2019.
Lehmann, S., and Faber, M., Rudolf Serkin: A Life, Oxford Univ Pr, 2002.
Rehm, W., “Zum Vorliegenden Band” In Mozart Klavierkonzerte, Band 8. Neue Mozart-Ausgabe. V/15/8. Kassel: Bärenreiter, 1960.

Rudolf Serkin: A Life ハードカバー – イラスト付き, 2002/12/1
英語版 Stephen Lehmann (著), Marion Faber (著)


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Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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