わが愛の譜(ウタ)〜滝廉太郎物語


瀧廉太郎 憾


オリラジの中田敦彦が滝廉太郎にまつわる都市伝説をテレビで語った際に、この曲の存在がにわかに世に広まったという感じがする。まとめると以下のような内容だ。


瀧廉太郎は素晴らしい歌曲を残し、ドイツ留学中に若くして結核で夭逝した。しかし、実は瀧廉太郎は文部省に「消された」のである。文部省は瀧廉太郎の才能を妬み、歌曲を作曲者不明の唱歌としてパクって使うために結核に罹患させたのであり、瀧は世を恨んで、絶筆のピアノ曲「憾」(うらみ)を残しこの世を去ったのだ……。


という、まことしやかな話。この話の真偽の程は不明、いや実際はほぼ「偽」で確定である。伝記等で調べると時系列的にほぼ筋が通らないのだが、しかし死の4ヶ月前に作曲され、瀧の最後の作品となったピアノ独奏曲「憾」は、そのストーリーを納得させてしまうような、暗く重い曲調の音楽である。都市伝説についてはネット上に多く記事があるので検索してみていただきたい。


さて「憾」というのは、いわゆる恨みではなく、未練とか心残りといった意味である。瀧の自筆譜には“Bedauernswerth”(残念、無念という意)というドイツ語のタイトルも書かれている。1901年に21才で日本人音楽家として2人目となるヨーロッパ留学生として出国し、ライプツィヒ音楽院で学んでほんの数ヶ月、結核にかかり翌年には帰国。1903年2月にこの曲を作曲し、6月に亡くなった。未練も多かろう。
「荒城の月」や「花」などの素晴らしい歌曲を数多く残した瀧がなぜ最後の音楽としてピアノ曲を選んだのだろうか。考えられるのは、瀧の高度な芸術への志向である。瀧廉太郎より7つ年下の山田耕筰は、瀧廉太郎について以下のように語っている。


「作曲にしてからが唱歌の程度を越える何ものもなかった。その頃にとにかくピアノ曲や合唱曲を作っただけでも瀧君がどういふ人であったは推測できる」(1950年)
「よし今日の程度から瀧君の作品を見れば到底本当の作曲と呼ぶに価するものではないとしても、作曲と云えば単音の唱歌程度のものしかなかったその時代に、少なくとも伴奏の付された作品を書いたという事は、全く異数というべきであろう」(年代不詳)


1903年に作曲されたクラシック音楽と言えば、ドビュッシーの交響詩「海」やシベリウスのヴァイオリン協奏曲、マーラーの交響曲第6番などがある。日本ではようやく国産ピアノの製造が始まった頃、日本初のピアニストと言われている久野久が東京音楽学校に入学した頃だ。
ピアノで表現しようと試みたのは、瀧の作曲家としての気概の現れである。芸術音楽として器楽を残した意義の大きさは、日本の音楽史において計り知れないものだ。
だが、それでもなお言っておきたいのは、この曲はどこまでも「歌」であるということだ……。


瀧が留学したライプツィヒはメンデルスゾーンゆかりの地として知られる。ライプツィヒ音楽院もメンデルスゾーンが開設した学校で、今は「メンデルスゾーン音楽演劇大学」という名称になっている。
ライプツィヒの公式ページにも写真があるが、音楽院そばの瀧の下宿先のあったところに、瀧廉太郎の記念碑がある。海外に出来た初の日本人音楽家の碑ではないかと言われているが、我々一般人にとっては瀧廉太郎の「横顔」が碑になっていることに驚きである。普通の日本人は正面向いたメガネかけた顔しか知らないというのに……(笑)


ちょっと話が逸れたが、瀧の曲の話に戻ると、この「憾」を聴いて彷彿とさせる作曲家というのが、僕はやはりメンデルスゾーンだと思うのだ。特にピアノ経験者なら素人でも弾いたことのある人も多いであろう、「無言歌集」を思わせる。瀧廉太郎がライプツィヒで学んだのかどうか、日本でどの程度認知度があったかは知らないが、やはり近いものを感じる……と書いてから調べてみたら、やはり瀧廉太郎は無言歌集を弾いたことがあったようだ。明治33年(1900年)12月8,9日に行われた東京音楽学校の第5回定期演奏会で弾いたという記録がある。
ニ短調で8分の6拍子、簡単な三部形式で、実に重苦しいメロディーが耳に残る曲だが、それなりにクラシックのピアノ曲を聴いている人にとっては、なんともシンプルな構成で、左手の伴奏と右手のメロディーというごくありきたりのものに思えるかもしれない。
技術的には易しく、ドイツ古典派とも違うし、ロマン派音楽ほど複雑でもない。というところでメンデルスゾーンなのだが、まあ日本における西洋音楽黎明期ならではの、まさにこれから発展していくというその最初の一歩のようだ。瀧にとっては、これが最後の一歩になってしまったのだが。
もちろんそれが当時の瀧の能力的な限界であったとも思うし、同時に後進たちに弾いてもらえるような、それこそ多くの初学者たちが触れられる「無言歌集」のような配慮(この言葉が合っているか自信はないが)をも感じる。考え過ぎかもしれないが。
技術的な未発達さもあるが、瀧の中にある「伝えたい」という思い、音楽の根源的なものが確かに存在するのがわかる。それは一度でも聴けば、旋律にこそある、この曲の「歌」にこそあるということもまたわかるだろう。
強い情念を感じうる日本風のメロディーに、ダクテュロス(長短短)とスポンダイオス(長長)という葬送行進曲のリズムが採用されていることは偶然か必然か。中間部の可憐な旋律も明るさより儚さが勝る。クライマックスの重低音は語るに及ばない。
これが当時の日本の音楽における、最先端の創作音楽表現であったことは違いない。この曲は日本の音楽の歴史に残る「器楽曲」であると同時に、瀧の他の傑作と同様に「歌曲」でもあるのだ。
まさに瀧廉太郎の最後の一声「白鳥の歌」であり、日本音楽史に燦然と輝く「無言歌」である。心して聴きたい。


ぜひ、こうした伝記的事実を知ってから聴いていただきたい。胸にぐっと来るものはあるだろう。どうも最近、佐村河内守の事件以降、こういうストーリーと音楽を結びつけるのに抵抗がある人もいるようだが、これは伝記的な理解あっての曲だなあと感じる。
言うなれば20世紀の、戦時中や戦後の録音についてもそうだ。僕はフルトヴェングラーやワルターの狂信者ではないが、今聴けば古臭いし技術でも劣るその響きに、そうであるからこその価値があることを認めるし、だからこそ魅力的であると思っている。


【参考】
瀧廉太郎「憾」の自筆譜については次のページが詳しい。リンクはこちら
海老沢敏『瀧廉太郎――夭逝の響き』(岩波書店,2004)
瀧井敬子『夏目漱石とクラシック音楽』(毎日新聞出版,2018)

瀧廉太郎―夭折の響き (岩波新書)
海老沢 敏
岩波書店
売り上げランキング: 329,659
夏目漱石とクラシック音楽
瀧井 敬子
毎日新聞出版 (2018-03-28)
売り上げランキング: 47,810