まえがき
Twitterの方で、フォロワーさん方と「なぜリヒテルの弾くラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の録音がないのか」という話をしていたら、「モギレフスキーの演奏を聴いて遠慮したというエピソードがある(レコ芸)」と紹介していただいた。その件について、僕もちょっと調べてみて先日ツイートしたのがこちら。
この話題の初出はJürgen Meyer-Jostenというピアニスト・音楽学者の著書“Musiker im Gespräch : Svjatoslav Richter”(1981)のようで、そこから各種音楽雑誌や伝記に引用されているようだ。この本自体は今はやや入手が大変そうだが、二次、三次の資料ならいくつかありそう。レコ芸もきっとその辺りからの引用だったのだろう。
なお、モギレフスキー弾くのラフマニノフのピアノ協奏曲第3番については、コンドラシン/モスクワ・フィルの64年スタジオ録音(↓)と、同じく64年、エリーザベト国際コンクール優勝時の録音があり、後者はYouTubeに動画がある。権利不明なのでここには貼らないけど、検索すればすぐ出る。Twitterでは、このどちらを聴いてリヒテルは感激したんでしょうね、なんて話をしていた。
Piano Music Vol.1
Rachmaninov (アーティスト)
さて、その本でリヒテルはどう語っているかというと、僕の意訳だが、
「私はラフマニノフの1番と2番を弾き、3番は喜んで聴きますが、弾きません。なぜかというと、他の人の演奏が本当に好きだからです。もし私が他のピアニストの解釈が気に入らなければ、とっくの昔に私のレパートリーになったことでしょう。同じことがラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲にも言えます。他の人も非常に説得力のある演奏をします。例えばゲイリー・グラフマンによる素晴らしい録音。大概、ラフマニノフの第3協奏曲を演奏するほとんど全てのピアニストは上手く弾いています。クライバーンも上手い。私はかつてフリエールがなんて美しく弾くのだろうと感激しました、若いモギレフスキーも同様です。3番もラフマニノフ特有の魅力溢れる、とても美しい作品です」
とのこと。結局、モギレフスキーの2つの録音のうち、どちらを聴いてリヒテルが感激したのかはわからなかったが、モギレフスキーだけでなくフリエールやクライバーンも挙がっているのは興味深い。クライバーンは、やはり第1回チャイコフスキーコンクールの演奏を念頭に置いているのだろうか。リヒテルが審査員として高得点をつけたという逸話が残っている、アレだ。
ラフマニノフの話題はTwitterに書いたが、これを調べているうちに、他にも興味深い話に当たったので「そのうちブログに書きます」と宣言した。宣言でもしないと、書かないんだよね。
リヒテルのカルトとインタビュー
リヒテル自身は、その長いキャリアの中でジャーナリストと話すことはほとんどなく、インタビューを受けることにも消極的だった。リヒテルの性格的には人懐っこくて社交的なのだが、特にソ連でうっかり何かしゃべろうものなら、どんな使われ方をされるか……純粋に音楽的な話も政治利用されてしまうのを恐れるのは当然だろう。ソ連が崩壊した晩年はインタビューも受けており、様々なメディアで残っている。日本で最も有名なのはブリュノ・モンサンジョンによるもの(↓リンク参照)だが、ロシアではValentina Chemberdzhiの著書も知られている。こちらは邦訳ないのかしら。研究者じゃないので知らんわ、ごめんね~。
リヒテル 単行本 – 2000/9/1
ブリューノ モンサンジョン (著), Bruno Monsaingeon (原名), 中地 義和 (翻訳), & 1 その他
リヒテルの父はドイツ人であり、ルーツはそちらの方にもある訳だが、ソ連だけでなくドイツやオーストリアにも、いわゆる「リヒテルおたく」や「リヒテル狂」みたいな人たちがいる。リヒテルのカルトってやつだ。日本にもいるけどね。
僕もリヒテルは好きで、同じリヒテルのファンと楽しくお話するのは大歓迎。しかし、中にはどうしても、「リヒテルばかり褒めて、他のピアニスト、特に現代の演奏は貶すだけ」という性根の腐ったファンもいる。上でも書いたが、リヒテルは他の若い奏者の演奏も堂々と褒めるピアニストだ。そういうリヒテルのことが好きなくせに、どうして他人の演奏を認めたがらないのか不思議でならないが、そんな嫌味なファンは無視するに限る。だって偉そうに貶すけどさ、リヒテルの演奏だってどうせロシアのエアチェックとか非正規の稀少盤とか、聴き漁っていないんでしょう、そういう人たちって。リヒテルこそ至高だなんだと偉そうに講釈垂れるなら、その辺の聴いてから出直して来いって話よ。だから、リヒテルを武器のように振りかざして「リヒテルに比べると今の演奏家は云々」みたいに他を貶す連中は、一切取るに足らないと断言しておこう。もちろん「たくさん聴いてないけど好き!褒める!素晴らしい!」は平和なので良いと思います。僕は、貶すのが好きな攻撃性の高いオタクの話に聞く価値があるかどうかを「どの程度聴いてるのか」で線引しています、ということです。
「日本でイキってんじゃないぞ」ということだけども、まあ世界的に見れば、ロシアの「リヒテルおたく」は情報量で圧倒的に得をしているが、やはりルーツがあるドイツ語圏のオタクもラッキーではある。リヒテル現役時代から、音盤収集家はもちろん、ツアーを追いかけて一言一句記録する者などもいたそうだ。そういう「独墺のリヒテルおたく」たちの聖地(?)のようになっていたのが、なっていた、というのは、今はどうか知らないからだけど、オーストリアのヴェルスという街。ロシアの音楽学者レフ・ギンズブルクは、マイセンベルクのリサイタルを聴きに行った際、そこに集まった地元の音楽愛好家たちと一晩過ごし、地元の音楽協会のリーダーからJürgen Meyer-Jostenの本をもらったそうで、1996年にロシアの音楽雑誌で紹介している。モンサンジョンやValentina Chemberdzhiはリヒテル最晩年のインタビューであり、Jürgen Meyer-Jostenの本は1981年のものなので、インタビュー集としてはかなり早い方になる。上でも少し触れたが、Jürgen Meyer-Jostenはドイツのピアニスト、音楽学者であると同時に、バイエルン放送の幹部も務めた人物である。なので、書かれているリヒテルの発言の内容も、まあまあ信憑性のあるものとして取り扱ってもいいだろう。アンリ・リトルフ社から出版。このシリーズはリヒテルの他に、アラウ、バレンボイム、ブレンデル、ポリーニなどがあるらしい。ヨーロッパの古書店等で見かけた際はぜひ手にとってみてください。下に画像を貼っておこう。冊子としては薄い本である。
この話題の初出は、恐らくJürgen Meyer-Jostenの“Musiker im Gespräch : Svjatoslav Richter”(1981)で、そこから各種音楽雑誌や伝記等に引用されているようです。これ自体はページ数も少ない薄い本。入手は難しそうですが、二次三次の資料に出典として記載あり。レコ芸もかな?ご存知の方いらしたら🙇 pic.twitter.com/h2fRIOxqnO
— ボクノオンガク (@bokunoongaku) February 1, 2021
全部弾くべきか、否か
さて、本題に入ろう。せっかくラフマニノフ3番を「なぜ弾かないのか」について調べたので、リヒテルが「なぜ弾くのか」「なぜ弾かないのか」について語っているところを抜き出してみる。例えばこちら。
ショパンのエチュードは全部弾かなくてもいいとわかりました。私は、「ソナタ全曲」や「エチュード全曲」など、全体を演奏する習慣には、全般的には反対です。
と語る。まあこれはリヒテルのLive盤を聴いている人なら、そう思っているのであろうと容易に想像できる。とにかく全曲ではなく抜粋が多い。さらにこう続けている。
私にとっての例外は、平均律クラヴィーア曲集です。ネイガウスに学んでいた時代に、前奏曲とフーガを5曲ほど聴いた翌日、私はもう曲集全体を自分で勉強していました。これについては、全てのピアニストが平均律クラヴィーア曲集全曲を弾く義務があるというのが私の意見です、暗譜でね。今は、コンサートでは必ず楽譜を置いています。記憶力の問題ではなく、昔、親友に言われたことが印象に残っているからです。「わかった、平均律クラヴィーア曲集を暗譜して弾くんだね、でもよく考えてみて。バッハに失礼だと思わないのかい?」と。それを真剣に考えてみたのですが、本当に失礼なことだと思いました。ということで、今はこの作品を楽譜を置いて弾いています。
何でも全部弾かないといけない、というものではないが、平均律は全部弾けなくてはならない、という考え。なるほど。暗譜についてはムーティとリヒテルの記事を書いたときにも触れましたね。リヒテルの平均律はとても素晴らしいので、好きな方も多いでしょう。僕も愛聴盤で、これだけはiPodにずいぶん長いこと入れたまま、肌身離さず持ち歩いている。ちなみにリヒテルは、バッハをチェンバロでのみ弾くべきという考えには賛同できないと語っている。
バッハ : 平均律クラヴィーア曲集 全巻
リヒテル(スビャトスラフ) (アーティスト, 演奏), バッハ (作曲)
サン=サーンス、ブラームス、ショパン、ベートーヴェン、スクリャービン
少ないが言及があった作曲家について、抜粋して載せておく。
サン=サーンスのような作曲家を恨んでいるわけではありませんが、第5協奏曲は自分で演奏しました。第2番をずっと弾いてみたいと思っていたのですが、今のところ手がつけられていません。
実際サン=サーンスの協奏曲は5番以外の録音はない。そもそも、リヒテルが弾いたサン=サーンスの曲で録音が残っているのは、グートマンと弾いたチェロ・ソナタと、第5協奏曲のみである。
ブラームスのピアノ協奏曲第1番ニ長調は弾いていませんが、嫌いだからではありません。第1楽章と第2楽章はとても好きで、第3楽章はあまり好きではありません。全部は弾けないね!
ブラームスのピアノ協奏曲第2番は録音も多いが、1番はとうとう出なかった。
ショパンではピアノ協奏曲第2番のみ、ベートーヴェンでは第1番と第3番、ロンドとコラール幻想曲を弾いています。また、スクリャービンのソナタ第5番を何度も弾いて、ようやく自分が求めていた軽さと速さを手に入れることができました。私はスクリャービンのソナタ5曲、第2番と第5番、第6番、第7番、第9番を演奏しています。
ベートーヴェンならもちろん、有名なカラヤン指揮ベルリン・フィル、オイストラフ、ロストロポーヴィチとの三重協奏曲の録音(↓)もある。この録音は1969年だが、触れていないのは何かわけがあるのかと勘ぐってしまう。だってそうでしょう(笑)
ベートーヴェン:三重協奏曲&ブラームス:二重協奏曲
カラヤン(ヘルベルト・フォン) (アーティスト, 指揮), & 8 その他
新ウィーン楽派、ブーレーズについて
リヒテルはアルバン・ベルクの室内協奏曲を偏愛していて、録音も複数残っている。例えば↓の、オレグ・カガン(vn)、ユーリ・ニコライエフスキー指揮モスクワ音楽院器楽アンサンブルとの1977年12月録音は有名所だ。ベルクについては、こんなことを語っている。
Sviatoslav Richter – The Complete Warner Recordings
Richter, Sviatoslav (アーティスト)
私はアルバン・ベルクの室内協奏曲を意欲的に演奏しています。とても面白い。だからと言って、特に近い感じがある訳ではなく、むしろ古めかしいとさえ思えるのですが、洗練された優れた構成の作品であり、時には少し「学者的」になりすぎているかもしれません。音楽が科学になってしまう、つまり芸術が科学になってしまうのが嫌いなんです。残念ながら、ピエール・ブーレーズと全ての現代音楽はまさにそうです。彼らの音楽は科学に近づいていて、私はそれが好きではありません。私は音楽に愉悦を求めているし、ブーレーズは音楽で愉悦を求めることに反対しているだけ。私は新ウィーン楽派やその信奉者に反対しませんし、それどころか、才能や天才がそこに現れる限り、様々な芸術運動が存在することに賛成です。しかし、私は「○○はこうあるべき、他はない、こうでなければならない」という教義には強く反対しています。芸術においては、私は楽しさのため、喜びのために……。
どうでしょう。僕が上の方で書いたことも思い出してもらえると嬉しいのですが、リヒテルを至上として他を貶すなど、リヒテルが一番嫌うのではないだろうか。ブーレーズはリヒテルの10歳年下で、リヒテルは1971年に、ブーレーズの指揮でシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」を初めて聴いたそうだ。1975年にもブーレーズの演奏会を聴いて、その日に知り合いになったとある。Jürgen Meyer-Jostenの著書は1981年なので、70年代後半の言葉と推測できる。なおリヒテルはブーレーズ作品を弾いたことはなかったはずだが、1985年にはブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポランとストラヴィンスキーの協奏作品を演奏し、録音もある(↓)。
Richter Discoveries Volume 2
Sviatoslav Richter (アーティスト)
フランツ・リストについて
リスト大好きリヒテル先生、こだわりがあるようで、どうぞ!
「私のレパートリーの中では、2つの協奏曲が際立っています。私はどんな状況でも「死の舞踏」は弾きません。この曲は好きではありません。この曲の「バイロニズム」にうんざりしています。「ダンテ・ソナタ」も好きではなく、「物思いに沈む人」、これは悪夢のようです。ですが「婚礼」は美しく、「ペトラルカのソネット第123番」は華麗で高貴な曲だが、残念なことに誰しも平凡な演奏になりがちだ。「雪あらし」のような曲はまた嫌いだ、何か平凡なものを感じる。「鬼火」は良い曲だが、最後にはどうも怪しい感じがする。しかし、「愛の夢」と「夕べの調べ」素晴らしいし、「荒々しき狩」はややマイアベーア的だが、とても良い。超絶技巧練習曲で私が弾くのは、1,2,3,5,7,8,11,10番だけです。あるソワレの1曲目として弾いた順です。残りは私のレパートリーではないです。例えばマゼッパはオーケストラ版の方がずっと良いと思います。私は全般的にリストの交響詩が好きです。最初の交響詩「人、山の上で聞きしこと」はもちろん、絶対的に素晴らしい「オルフェウス」と「ハムレット」も大好き。なのに皆、比較的平凡な作品である「タッソー、悲劇と勝利」ばかりいつも演奏します。最近少しリストをがっかりさせていたので、もっと頻繁に彼の元に戻ろうと思っています、ロ短調ソナタ、なんて素晴らしい作品!また弾きたいと思っていますが、小品とか、巡礼の年の「オーベルマンの谷」など、好きな曲はまだあります。
やや長めの引用だったが、リヒテルがどれだけリスト作品に精通し、こだわりを持っているかがわかる。死の舞踏のくだりは、リヒテルファンなら何となくわかるでしょう……。超絶技巧練習曲については、リヒテルは本当にこの順番でしか弾かない。この順で弾いた音源は多々ある。例えば↓の1番め、1988年3月10日のケルンLive録音は有名だ。リヒテル73歳の録音。2番めはコンドラシン指揮ロンドン響との協奏曲、61年録音。
リスト:超絶技巧練習曲集、ため息
リヒテル(スヴャトスラフ) (アーティスト, 演奏), リスト (作曲)
リスト:ピアノ協奏曲 第1番・第2番
スヴャトスラフ・リヒテル (アーティスト)
リピートについて
リピート、つまり曲中の反復についても語っている。
古典派の作品における所定の繰り返しについては、私は次のように考えます。熱情ソナタの終楽章の繰り返しを弾かない人は、このソナタの演奏を全面的に禁止すべき。リピートを逃す奴はブーイングされるべき。しかし残念ながら誰も文句を言わない!シューベルトの変ロ長調のソナタ(21番)の第1楽章も同じことが言えるが、ほとんどの人が繰り返しを省略している。私はいつも弾いています。しかし演奏会が終わると必ずと言っていいほど他のピアニストが私の楽屋に入ってきて、「何故すべての繰り返しを弾くのですか?」と知りたがります。そこで楽屋に来ているお客さんに「長過ぎでしたか?」と尋ねると、必ず「いいえ!そんなわけがない!絶対に!」と答えますよ。ほとんどのお客さんが繰り返しについて全く知らないでしょうが、本能的にその繰り返しが正しいものだということを感じているのです
現代では逆に繰り返しをする方が多くなってきたかもしれない。リヒテルはこう続ける。
音楽家、ピアニストはいつも長いと言う。下品で愚かなだけだと思う。このピアニストたちが本当に音楽を理解していない証拠だ。緊張感を維持できず、自分に自信がないから、つまらなくなるのではないかと恐れている。ショパンのソナタも同様で、もう聴くのも嫌になってしまった。少し前に若いピアニストと話していたのですが、そのピアニストはとても良い音楽家です。ショパンのロ短調ソナタの冒頭がいつも難しいと愚痴っていた。「まあ最初はそうかもしれませんが、2回目は第1楽章の提示を繰り返しているので、もう楽になっているはずです」と言ったら、彼女は「でも私は繰り返しを弾きません、誰もやりませんよ」と答えた。私は尋ねた。「恥ずかしくないのですか」 と。彼女はすぐに恥じて、ソナタを繰り返しありで弾くようになり、後になって「上手く弾けるようになりました」と言っていました。実際そうするのは思った以上に簡単なことです。最初に弾くときに過度の緊張が発生する場合は、2回目は間違いなくより良くなります。まさにクレッシェンドであると、より自由になったんだと、わかるはずです。私も練習していて、1回目が良かったのにリピートが悪くなったというケースは一度もありません。
リヒテルはベートーヴェンの交響曲第5番や、オペラでは椿姫やリゴレットのカットについてもけしからんと言っている。このまま熱くなったリヒテルは、最近の新しいホールもけしからん、バイロイトの劇場は音響的にも最高なのに、なぜあれを見本にしないのかとご立腹だった。
あとがき
ざっとまとめてみたが、あまりインターネット上には無い話なので、興味のある方にとっては面白い内容だったのではないだろうか。なんでも全曲・全集をやればいいのではないという態度ではあるが、個々の作品については、削ったりするのはご法度である、と、一貫しているようだ。また、親友から「バッハの平均律を暗譜で弾くなんて恥ずかしくないのか」と言われた話や、リヒテルが若いピアニストに「繰り返しを弾かないのは恥ずかしくないのか」と言った話など、やはり楽譜、つまり作曲家に対する真摯な姿勢、謙虚さ、リスペクトがあること……そういうリヒテルの態度を、ここでも見ることができる。リヒテルは、自分が最高だなんて到底思っていないわけで、もし本当にリヒテルに対し我々ファンもリスペクトを抱いているのであれば、僕は「リヒテルこそ至高」などと言うのはおかしいと思っている。別に「こそ至高」という言葉狩りをしたいのではない、好きに使っていいのだが、考え方の話だ。さらに、新ウィーン楽派やブーレーズについてのコメントを見ても、リヒテルは新しい芸術運動に寛容であるが、同時に「芸術はこうでなくてはならない、他はダメだ」という不寛容な考え方に対しては、リヒテルも不寛容な態度であるという、まるでポパーやロールズのような考えを持っていることもわかる。だから僕も、リヒテルについては、例えば「ベートーヴェンはリヒテルのようなこういう演奏でなければダメだ」といった意見については、どうしても認められないのだ。何にでも言えることだが、可能な限り寛容でありつつ、自身の強い個性を持つというのは、決して矛盾したことではない。排他的で居続けることに真実の追求や自己のアイデンティティを見出すというのは、少なくともリヒテルの音楽性とは真逆であるように思える。一部カルトは嫌われても、リヒテルというピアニストが好かれる理由には、そんなところも関わっているのだろうなと、調べていて思ったので書き残しておく。
リヒテルは語る (ちくま学芸文庫 リ 8-1) 文庫 – 2014/3/10
ユーリー ボリソフ (著), Yury A. Borisov (原名), 宮澤 淳一 (翻訳)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more