チャイコフスキー 交響曲第4番:音楽が語るとき

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チャイコフスキー:交響曲第4番/ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番(ロストロポーヴィチ/レニングラード・フィル/ロジェストヴェンスキー)(1960, 1971)


チャイコフスキー 交響曲第4番 ヘ短調 作品36


この曲のフィナーレを初めて聴いたときは「なんてカッコいいんだ!」と大興奮した。豪華な金管の音、疾走感、クライマックスの盛り上がり……チャイコフスキーの交響曲ってこんなに素敵なのかと思い知った。多分5番よりも6番よりも(もちろん1,2,3番やマンフレッド、ジーズニよりも)先に知ったのが4番だったはずだ。
まだクラシックオタクとしては駆け出しの頃だが、その当時の僕にとって、某年長者の方から言われた「チャイコフスキーの4番なんて、中身無いからねえ」という言葉は、しばらく呪いのように付き纏うことになる。中身がないとは。そもそも「中身」とは。
「中身」というのは、限定的かつ統一的に定義することは困難であるが、いったい何なのだろう。しかし中身のある音楽ない音楽という言い方は、それほど不自然なものにも思えない。その定義がはっきりしないまま、あくまで感覚的にだが、僕は「確かに5番や6番、特に6番なんかはすごく中身がある気がするし、4番はどこかスッカラカンな気がする……」という印象を持つようになった。


1877年12月、チャイコフスキーはヴェネツィアでこの曲を作曲した。彼が滞在したホテルの写真を見ると高級感もあってオシャレで、街の雰囲気もあってとても良い時間だったに違いない。なるほど、そりゃ「悲愴」よりもスッカラカンな音楽にもなるわな、なんて適当なことを思ったりもしたが、よく調べるとこの頃のチャイコフスキーは結婚の失敗から精神を崩し、自殺未遂までしている。どうもそんなに楽観的なものではないらしい。社会情勢的にも、露土戦争真っ最中で、不安定な時代だった。
そういう個人・社会的背景を踏まえ、きちんと楽曲解説などを読むと、第4番でチャイコフスキーは、戦争、人間の過酷な運命、その運命への対峙、戦い、民衆の勝利、そういった「ベートーヴェンの第5番」的なものが、この曲のモチーフとしてそもそもあったということがわかる。チャイコフスキー自身が各楽章について「これはこういう音楽で云々」と語っているコメントは、インターネット上にもいくつか見当たるので参照していただきたい。ロシアの音楽史上初めて成功した、ベートーヴェン的なメンタリティを持った音楽と言えるのではないだろうか。


このように、第4番に「中身」らしきものは確かにあるのだ。では標題音楽として聴けば良いのか。場面を思い浮かべ――1楽章のファンファーレは立ちはだかる運命で、2楽章は仕事に疲れた哀愁漂う夕暮れで、フィナーレは民衆に加わって運命と戦うのだ――聴けば良いのだろうか。なるほど、それはそれで楽しい。楽しいけど、初めて聴いたときの興奮を超えることはなかった。むしろ何も知らなくても興奮したのだ。あの4楽章のクライマックス、1楽章だってそうだ、あの旋律のメランコリックな美しさ、あるいは3楽章のピチカートの楽しさや愛らしさ。もし「中身」を言葉や物語と解するならば、それらが音楽へと形を変えて、読めなくなった代わりに聴こえるようになったときに、音楽「で」語るのではなく、音楽「が」語るとき、音楽そのものが語るとき、その瞬間にこそ感動したのだ。オペラやリートとは別の次元の話だ。ベートーヴェン的なメンタルではなく、チャイコフスキーのフィジカルにやられた。中身がない?上等じゃないか、僕は圧倒的な「上辺」にいつもぶちのめされる。


だから、僕は第4番に限って言えば、外連味というか、外面的に整えられた演奏、その場その時その瞬間の美しさが光る演奏に惹かれた。初めはカラヤンとベルリン・フィルだった。また、先日亡くなったマリス・ヤンソンス、彼について、ネット上で「彼は音楽性ではカラヤンの後継者であり、構造や構築云々よりもフレーズをいかに美しく響かすかというところが肝要だ」というコメントを読んだ。僕はマリスより父アルヴィドの音盤ばかり聴いているが、マリスとチャイコフスキーの4番の相性が良く感じるのは、その辺のところと関係していそうだ。
あるいはロジェストヴェンスキーとレニングラード・フィル(1971)の爆演に、またテミルカーノフ/サンクトペテルブルク・フィルのシャンゼリゼ劇場ライブ(2007)のひたすら押し寄せる音圧に、胸が熱くなった。僕にとってこの曲の持つ崇高な精神などどうでも良く、ただただ、空虚な音の大伽藍に圧倒され、その中の人々の祈りや信仰は二の次、なんて言ったら無礼者だろうか。


「中身」を「音楽の持つ物語」や「心身二元論的な意味での精神」のように定義して書いてみたが、こんな個人による定義なんてものはなにぶん流動的な性質である。もっと色んな角度で語ることもできるし、別に上に挙げた演奏ばかりに感動している訳ではない。しかし、今書いたような印象も僕にとってひとつの真実である。
たとえば、なぜ5番や6番は中身が詰まっているような印象なのか。これも、今のところだけど、僕は5番において「中身」とはこの「音楽そのものが語るもの」そのもの(メタな話で恐縮だが)、それが4番よりもずっとずっと濃くなってしまったものだと思っている。また6番ではそれに加え、ロマン派音楽の極みである「人生」という物語までもがギュッと詰まってしまったのだと、そう感じている。6番については昔書いたので、チャイコフスキーの三大交響曲の中で僕の最も好きな交響曲第5番については、またの機会に語ろうと思う。

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