ボウデン サドン・ライト:見はるかす浜辺には点々と燈火

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ボウデン サドン・ライト


マニアック方面に傾き過ぎてはいかんいかんと思いつつ、ああまたしても。しかも、いわゆる「現代音楽」である。はい、興味ない人は帰った帰った。
なんてね、そういう言い方は良くない。もっと広く聴衆を獲得する努力をせねば。まあ、僕が努力してもしかたないんですが……いや、でも知らない人にこそ読んで欲しいなあ。それでもまだ、イギリス現代音楽は、KAJIMOTOが藤倉大をお抱えしているおかげもあり、日本でも興味を持ってもらえる方でしょう。多分ね。
ということで、そんな人気作曲家と同年代のイギリス現代音楽作曲家、マーク・ボウデン(1979-)のNMCデビュー盤から、タイトルチューンにもなっている「サドン・ライト」(Sudden Light)を紹介しよう。


ボウデンが作曲を学んだのは、ハダスフィールド大学名誉教授でハダスフィールド現代音楽祭の発起人であるリチャード・シュタイニッツ(リゲティの伝記も書いている)や、こちらも人気作曲家であるジュリアン・アンダーソン。アンダーソンの方は作品も多くリリースされているからすぐに聴けるだろう。多くの賞を受賞しているボウデンも、配信含め聴ける音源が増えてきた。
そんな彼の作風は、混沌とした音塊の中にも旋律や調性が明確に現れる、聴いて楽しい曲が多い。今回取り上げたNMCデビュー盤に収録されているどの曲も、時間軸的に音数が多く(休符が少ないと言えばいいのだろうか)、常に音が鳴っていてる感じ。そういう意味ではダラダラ適当に聴いてもなんとなく楽しめちゃう。間を重視するような作風だとそうはいかないけどね。例えばチェロ協奏曲である「ライラ」や、打楽器協奏曲の「ハートランド」は、BBCウェールズオケとソロ楽器の迫力満点ドッカンバトルでる。室内楽作品だけ、ちょっと大人しめ。


アルバムの最後に収録されている「サドン・ライト」は2005年の作品で、6,7分のオーケストラ曲。大体現代音楽っていうのは、何かしら解説を読んでから聴いた方が面白いことが多い。けどこれを最初に聴いたときは何も事前情報なしで聴いたので、とにかく開始早々オーケストラ大爆発で、なんじゃこりゃ、まあ鳴るわ鳴るわ、やっかましい曲だな、なんて思ったのだけど、断片になったフレーズ1つ1つからは意味を汲み取ることもできそうで、ちょっとストラヴィンスキーっぽい雰囲気もあり、意外と何も知らなくても楽しめた。打楽器も金管も大活躍、もちろん緩急はあるし、それぞれの楽器がソロ的に活躍するところもある。調性感もあって、時間も長くないので、飽きずに満足感を得られた。


しかし、それ1回こっきりであれば、ああ面白い曲もあるな、で終わっていたかもしれない。曲について調べてから聴くと、なお面白いものだ。
作曲のきっかけはマーカス・デュ・ソートイの著書『素数の音楽』で、有名な本なので読んだことある人も多いかと思う。その本では、素数は「数学者が何百年にもわたって探ってきた数の宇宙、無限に広がるその宇宙のあちこちにちりばめられた宝石」と表現されている。シンプルであり、他のすべての数を創る力があり、神秘的であり、予測不可能であり、無限である……。素数、音楽では和音の構成を見たときにも、ダイアトニックコードの構成要素でも不協和音であっても、そこで「素数」というものを意識して何か特別なものを見い出せるのではないか、と。和音だけでない。リズムだってそうだろう。様々な音楽のディテールにおいて、探求心をくすぐる、きらめきを与えるものだと思う。それに挑戦しているのがこの「サドン・ライト」という作品なのだ。


ところで「サドン・ライト」とは何か。もちろんそれは素数の宝石のような光という意味もあろうが、ボウデンはこのタイトルを、19世紀イングランドの画家・詩人であるダンテ・ガブリエル・ロセッティの一編の詩のタイトルから拝借した。“Sudden Light”という詩、林望は『林望私訳 新海潮音―心に温めておいた四十三の英詩』で取り上げている。そこでは「唐突なる光明」という題で訳されていた。
自称文化系の僕にとっては、素数の話よりも、こちらの詩の方が、何かこのボウデンの曲とも通じるような、ピンとくるものがあった。詩をまるごと載せるのもアレなので、抜粋して引用する。もちろんリンボウ先生の訳。


ぼくはここに来たことがある。
けれどもそれは、いつ、どうしてだったか、さて・・・。
ぼくは鮮明に思い出す ドアを開けば青草の
あの甘美なにおいが鼻を穿ち
風は耳元でささやき、見はるかす浜辺には点々と燈火。

(中略)
あれは、ほんとうにあったことだろうか。
いま、渦まく時の流れに、死をものりこえて
なおぼくらの命が、ぼくらの愛がよみがえって
昼夜あの歓喜をもう一度手にすることはできぬだろうか。


確実性と曖昧性の混在、記憶に残る自然の情景は真実か嘘か、あの歓喜を再び手にすることができるのか……。ああ、そうか、この音楽は、この光は、無限に広がるこの宇宙に散らばる宝石のようなこの光は、いつか来たあの場所の光でもあったのか、と。最初に書いていた内容はなんだったんだという感じだが、どちらも僕の正直な感想である。
ドイツの哲学者・数学者であるライプニッツは、「音楽とは、そこにおいて精神が数えることを知らない、算術の神秘的実践」と書いた。「たとえ魂が数えているという感覚を持っていなくとも、魂はこの感覚不能な計算の結果を感じる」と。唐突なる光明は、僕の魂も知らぬ間に、とんでもないところに連れていってくれたのかもしれない。


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Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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