カルウォヴィチ 交響詩「仮面舞踏会のエピソード」作品14
シマノフスキと同時代に活躍したポーランドの作曲家、ミェチスワフ・カルウォヴィチ(1876-1909)。ポーランド楽壇期待の星だったが、32歳という若さで亡くなっている。ワルシャワで音楽を学び、ベルリンにも留学。帰国後は作曲や指揮、自身で弦楽オーケストラを創設するなど活躍するも、ワルシャワの雰囲気が合わず1907年にタトラ山脈の街ザコパネに移り、登山家兼作曲家として活動。スキーの腕前はかなりのものだったらしいが、そのスキー中に雪崩の事故で夭逝した。悲劇の作曲家である。
ポーランドの作曲家というとショパンが圧倒的な知名度と人気を誇り、他に音楽ファンに愛される作曲家というとシマノフスキやペンデレツキといった、甘美なショパンとは正反対のような作風で有名な人たちが挙がるかもしれない。彼らの作品の記事は↓をどうぞ。
まあ他にもたくさんいるけれど、今回取り上げるカルウォヴィチは、リヒャルト・シュトラウスのようなロマンティックな交響詩に代表されるように、どの作品も美しいメロディとハーモニーが楽しめる曲ばかり。ぜひ気軽に聴いてみてほしい。カルウォヴィチが師事したバルセヴィチという作曲家はモスクワでチャイコフスキーに習ったそうで、そういう音楽の系譜を感じることもできる曲もある。また、交響詩で言えば、最初の交響詩「寄せては返す波」から順に聴くのも良いし、シンプルで技術的に易しめでカルウォヴィチ本人もリハ時間が少ないときは好んで取り上げたという連作交響詩「永遠の歌」や、あるいはR・シュトラウスを彷彿とさせる最も創造性が高い曲の一つであろう交響詩「オシヴィエンチモフ夫妻、スタニスワフとアンナ」、カルウォヴィチの悲観主義が全面に出た交響詩「悲しい物語」など、どれもこれも素晴らしい。
今回紹介したい交響詩「仮面舞踏会のエピソード」op.14は、1908年2月に着手され、未完に終わったカルウォヴィチ最後の交響詩。1911年に指揮者グジェゴシュ・フィテルベルクが補完を始め、2年かけて完成。1914年にワルシャワで初演された。自筆譜は第二次大戦で消失してしまい、このフィテルベルクがどの程度筆を入れたかはもはや不明である。カルウォヴィチが書いたのは473小節だという記録は残っている。
カルウォヴィチは、文学・哲学においてはショーペンハウエルやニーチェに傾倒し、音楽においてはワーグナーやチャイコフスキー、リヒャルト・シュトラウスを崇拝していたという。ということは悲観的・悲劇的な内容を、ロマンティックかつド派手に表現するのが好きなんだな、と想像ができる。実際その通りの作風である。この曲は、仮面舞踏会で再会したかつての恋人同士の思いが再び燃え上がり、それもまた舞踏会の喧騒に引き裂かれるという悲劇を描いた音楽で、いかにもカルウォヴィチらしい主題とも言える。拡大されたソナタ形式、再現部以降はフィテルベルクの補筆だそうだが、メランコリックで美しいメロディや半音階を多用した色彩感、そしてスケールの大きな管弦楽法からは、彼が尊敬する音楽家たちの影響がすぐにわかるだろう。
何はともあれ、冒頭の華やかさがいい。金管と打楽器で、いかにも豪華な仮面舞踏会が始まるのだなと心躍る。主題もまた上品で、それでいてどこか不安げで、怪しさもあって、独特な雰囲気を醸し出す。中間部の変ロ短調の悲歌的なパート、ここがメインになるのだろうが、哀しくも美しい恋物語、迷い込んだイリュージョンでかりそめの一夜を踊る二人を思い浮かべながら聴くと良いのかもしれない。美しい。シャイな言い訳は仮面で隠して、ただただ酔いしれたい。再現部の後にはエピローグ的な部分がある。ここはおそらく、完全に後の創作になるのだろうが、このように静かに消え入る終わり方以外はないと、むしろ必然ですらあると思える。ああ、ああ、焦れったいような回想だこと。そうして二人はまた引き裂かれる運命なのであった。完。
補筆したフィテルベルクは、自筆譜にはこんなテキストがあったと指摘している。
彼女(声に出して):「あなたなんて知らない」 (囁き声で)「行って……行ってしまったものはもう戻らないの……聞こえる?……消えて――忘れて!」
これ、実話かなあ? なんて勘ぐってしまうけど……カルウォヴィチさん、そこんとこ、どうなんですか!?
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more