アイクベア 夏草や:上野は子規の碑も遠し

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アイクベア 夏草や

「夏草や兵どもが夢の跡」は松尾芭蕉の有名な俳句で、「おくのほそ道」の「平泉」にある。1689年、奥州藤原氏が栄華を誇った平泉の地を訪れて詠んだ句だ。僕も10年近く前に平泉を訪れた際は、笠うち敷きて時の移るまで涙を落とし……とはいかないまでも、感慨深いものがあった。
いきなり話が逸れるが、この記事の副題「夏草や上野は子規の碑も遠し」は僕の詠んだクラオタ俳句である。自分で解説するのは恥ずかしいが誰にも伝わらないのも恥ずかしいので書くけども、「夏になると、上野の東京文化会館は涼しいから一度入ったらもう出たくないので、せっかく上野公園に来ても草の茂る公園側やすぐ隣の子規球場の碑まで行くことは無いんだなあ」という、昨日「上野deクラシック」の公演に行ったときに思ったことを詠んだ句である。いやあ、マジで暑かったからね。子規には「夏草やベースボールの人遠し」という句があるので下敷きにした。夏草と兵ども、夏草とベースボールという対比に負けじと、夏草と上野を対比してみた。上野は地名というよりも、クラシック音楽オタクが東京文化会館を指して言う用語である。公園にあんなに緑があるのに、駅出て即文化会館行くと一ミリも緑に触れない。涼しいし。良い対比だ。これはプレバトの夏井先生も花丸くれるでしょう。

さて、本題に移ろう。芭蕉の句をテーマにしたクラシック音楽作品、まあクラシックと言ってもほとんどは現代音楽になるわけだが、芭蕉テーマの西洋の芸術音楽作品は意外とある。その殆どが、普通の日本の音楽ファンは知らないし、そもそも興味もないだろう。たとえ芭蕉が好きだとしても、である。僕が「芭蕉をテーマにした現代音楽」として初めて触れたのは湯浅譲二作品である。

響層I
柴田南雄 (作曲), 三善晃 (作曲), 湯浅譲二 (作曲), 藤井宏樹 (指揮), & 2 その他


今回取り上げるのは、セアン・ニルス・アイクベア(1973-)という作曲家の、その名も「夏草や」、原題“Natsukusa-Ya”である。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの四重奏。アイクベアはデンマーク系ドイツ人作曲家で、2001年のエリザベート王妃国際音楽コンクール作曲部門で優勝している。2010年にはデンマーク放送響における史上初のレジデント・コンポーザーになった。現代音楽に興味の薄い、いわゆる普通のクラシック音楽ファンが名前を見かけることは少ないだろうが、ヒラリー・ハーンが17カ国26人の作曲家にヴァイオリンとピアノのためのアンコールピースを委嘱した「ヒラリー・ハーン・アンコール」にはアイクベアの“Levitation”という曲が入っている。短いので気軽に聴いてみてください。アイクベア、最近は指揮者としても活動しているそうだ。

27の小品
ハーン(ヒラリー) (アーティスト, 演奏), スマイス(コリー) (演奏)


そんなアイクベアが「夏草や」を作曲したのは2005年、広島への原爆投下から60年である同年に行われた原爆被害者に捧げるコンサートのために作曲された。CDの解説によると、樫本大進率いるアンサンブルが初演したらしい。この曲の詳しい情報はもちろんのこと、樫本らが演奏したという当時の状況も今のインターネット上にはほとんど見当たらない。もしかすると長く樫本のファンをやっている人なら知っている人もいるかもしれない。
アイクベアは「闘争や戦闘の後、あらゆる人間の虚栄心の後、残るのは草ばかりだ」と語る。言われてみれば別に不思議でもないのだが、この句を反戦と結びつけるという発想は日本人にしてみると少し意外に思われるかもしれない。戦いの無意味さを説くというよりも、また違う角度で無常観を詠んでいるというのが、おそらく一定のイデオロギー下にない鑑賞者にとっての一般的な解釈だと思う。個人的には、原爆によって「75年は草木も生えぬ」と言われた広島の犠牲者に捧げる音楽が「夏草や」とは……と思わぬこともないが、アイクベアはそんなこと知らないだろうし、もっと純粋に戦争の虚しさを表現したいだけなんだろうから、余計な茶々は入れないでおこう。というか、非常に外国人作曲家らしい観点だし、日本人作曲家では考えつかなそうなところに、珍妙なオリジナリティがあると言ってもいい。実際は草木も生えぬどころか平和都市として復興した広島と、夏草ばかりが生い茂る兵どもが夢のあとの平泉と、正直、重ねてみたことはなかった。これはおかしいことだろうか、外国人の無理解だと一蹴できるものだろうか……その辺りは個々人によると思うが、ともかく納得行くかどうかはこんな机上の話ではなく、アイクベアの音楽を聴いて判断していただきたい。


冒頭からいきなり「日本」を感じる響きと共に「俳句」を意識させる構造であることが伝わる。五七五が音程や和音、間、韻律など、音に置き換えられ、音楽として再構築された俳句と言っても良いが、音楽的俳句(俳句的音楽)にもちゃんと幽玄さが宿るんだなあとわかるのは面白い。アイクベアの巧みさでもある。俳句の形式だけではない。芭蕉の句の、夏草と兵どもという、相反しながら時空を共有するものの併置も、音楽に活かされているのが伝わる。俳句という形式が何かしら音楽に制約を与えているとしても、開放的な夏の空気を作り出すことには成功しており、窮屈ではない、むしろ広がりを感じる。夏の空気、特に湿度の高い日本の夏の重だるい雰囲気は、和音や弦楽器のポルタメントなどでも表現されている。
主題がショスタコーヴィチのDSCH音型のようなところが気になってしまうものの、それは一旦忘れて聴いた方がいいだろう。雅楽風な部分もあり、奥州藤原氏の時代に遡ることもあるし、激しいパートは戦だろう、まさに兵どもだ。ピアノが主題の音列を奏でると再び現代に戻ってくる。いや、現代なのか、それとも1945年の夏かもしれない。
古典的な旋律やフレーズと、不協和音や現代音楽的な響きと、その両方に意味を持たせて用いられている。それが作曲家の好みだ作風だという話に留まらず、この曲においては、過去と現在を繋ぐもの、さらには未来を紡ぐものとして機能している。そういうのは別にアイクベアに限った話ではないが、この曲もまた、メロディや古典的和声を音楽かくあるべしという信念でもって用いたり、逆に現代音楽たるために現代的な技法を用いたりしているのではない、ということだ。目的と手段がごっちゃになっている音楽ではない。そういう現代音楽は好きだ。この曲は、プロパガンダでもなければ、お誂え向きのエレジーでもない。良い芸術作品だと思う。全ての日本人に名曲だと認識してほしいなどとは微塵も思わない、しかし、日本人が思いつかなそうな仕方で日本をテーマにした音楽を生み出してくれているのは、やはり興味深いし、得られるものもあると思う。多くの日本人に聴いてほしい曲だ。

Works for Piano & Ensemble
Eichberg / Gryesten (アーティスト)

新版 おくのほそ道 現代語訳/曾良随行日記付き (角川ソフィア文庫 16) 文庫 – 2003/3/25
松尾 芭蕉 (著), 潁原 退蔵 (著), 尾形 仂 (著), 角川書店装丁室 (著)


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