キャドマン ヴァイオリン・ソナタ ト長調
自分の昔のメモを少し整理していたら「キャドマンのヴァイオリン・ソナタについてブログに書く」というメモを発見したので、従って書くことにした。何がきっかけでキャドマンのソナタを聴いたかはっきりとは覚えていないが、今探してもナクソスのCDしか録音が無さそうなので、多分これだろう。せっかくなら、このブログ記事に出会った音楽ファンや、あるいはヴァイオリン奏者が取り上げてくれて、もっと広まったら良いなあなんて思いつつ。
チャールズ・ウェイクフィールド・キャドマン(1881-1946)はアメリカの作曲家。ウォルター・ピストンやアーロン・コープランドより少し年長の作曲家だが、彼らと違いヨーロッパで学んでいない。アメリカ生まれアメリカ育ち、アメリカで音楽を学んだ作曲家だ。この時期のアメリカの作曲家で、かつ音楽史に残る人物で、ヨーロッパ留学と無縁だった作曲家となるとかなり限られる。ペンシルヴァニア生まれ、13歳でピアノを学ぶとすぐ簡単な曲を作曲するようになるものの、資金に恵まれず音楽を学ぶのは難しく、教会でオルガンを弾いて小銭を稼ぎつつ音楽を学んだそうだ。ピッツバーグで音楽理論を短期間だけ学ぶと、当時のピッツバーグ響のコンマスからオーケストレーションを学び、その後1908年からはピッツバーグのディスパッチ紙で音楽部門の編集、評論家を務めるようになった。
1907年、人類学者アリス・フレッチャーの著書“Indian Story and Song”(インディアンの物語と歌)を読み、インディアン(ネイティブ・アメリカン)の音楽を学び、それに基づく音楽を作曲し始めた。ちょうどその頃、結核性疾患の治療のためニューメキシコ州のサンタフェに向かったキャドマンは、フレッチャーと手紙でやり取りし、インディアンの音楽について深く学ぶ手助けを求め、オマハ族のフランシス・ラ・フレッシュという女性を紹介される。キャドマンは彼女と共に、スミソニアン博物館のためにオマハ族伝統の楽器や演奏、メロディなどの研究に携わることができた。キャドマンはこれを西洋音楽の和声的伝統に組み込もうと努めた。
このようなムーブメントが当時のアメリカの音楽界では盛んであり、作曲家アーサー・ファーウェルが中心となって行った“Indianist movement”(インディアニスト運動)と呼ばれている。この運動は1880年代から1920年代に盛んに行われ、アメリカへ移住してきた者たちが追放、抑圧してきた先住民の文化を理解し、それを芸術音楽(西洋のクラシック音楽)へと高めることこそ、ヨーロッパ系アメリカ人の義務であると信じて作曲・出版を行った。「そのような運動などなかった、結局民謡を取り入れようと各々の作曲家がそれぞれ勝手にやっただけだ」という評価もあるようだが、ファーウェルに関しては理論家として尽力したようだし、キャドマンについては、もちろんそのような意識もあり、結果的にキャドマンの曲は売れたため普及者となったようだが、それだけに終始する音楽家ではないと、個人的には思うところである。
この「インディアニスト運動」は幸か不幸か、キャドマンの音楽に対する聴衆の見方を決定付けるものとなった。1909年にはオマハ族の歌を元に作曲した“From the Land of the Sky-Blue Water”がヒットし、歌曲としてはもちろん、1906年の一番有名な歌曲“At Dawning”ともに様々な編曲がなされて演奏された。ヴァイオリン編曲はクライスラーもよく演奏したそうだ。作曲家としての地位と安定した収入を得たのと同時に、キャドマンは人々から「インディアン音楽の作曲家」と認識されるようになった。1918年にはインディアンの音楽の旋律を用いらオペラがメトロポリタン歌劇場で上演され、MET初の現代アメリカを舞台にしたオペラだと言われている。オペラは5作あり、ほかにも管弦楽曲や室内楽曲、カンタータ、独奏曲など数多くの音楽を残している。現代で聴けるものは限られるが、正規の音楽教育が少ない割には非常に洗練されていると思う。逆に言えば、そうでなければ民謡を組み入れ、しかも高めようなどと試むことすら不可能だろう。
1916年からはロサンゼルスに移住したためハリウッドと繋がりもあり、映画音楽も手掛けた。フォックス・スタジオと契約し様々な映画音楽を書いたが、ハリウッドの作曲家ディミトリ・ティオムキンと今後の映画音楽の方向性で議論になり、ティオムキンはジャズなどポピュラーのアプローチを推したが、キャドマンは伝統的なスタイルを貫くべきとし、結局フォックスを辞めている。キャドマンは「クラシック」にこだわり、自作の芸術音楽作品についても高く自己評価していた。今では中々顧みられないが、曲を聴いてみてもらえれば、それもわかると思う。
今回取り上げるヴァイオリン・ソナタは、1929年の年末にサンディエゴで作曲を始め、翌1930年2月にフレズノ近郊で完成。4月にロサンゼルスで初演された。出版は1932年、それまでに何度か手直ししており、その際にキャドマンは友人に次のように手紙に書いている。
「太平洋岸と砂漠の国を少し取り入れた、精神的にはアメリカ的なものだという幻想を抱いている。リリカルでダイレクトで、でもアメリカ人の生活って、そうなんじゃない?つまり、表面的なものを取り除いた後って。だけど!言いたいことは、それを超えたところに、このクソ曲にはネイティブのムードがあるということ。ああ、もう何年もインディアン的なものから離れてしまったよ……それでも!何年か後には、また違ったアプローチがあるかもしれない。時が経てば分かるかもね」
なんとか雰囲気を残しつつ訳してみたんだけど……。ぜひ読んでから聴いてみていただきたい。3楽章構成で、2楽章が一番長い。ネイティブ・アメリカンの音楽は多分に用いられ、影響しているのだろう。しかしとても丁寧なクラシック音楽の形になっているので、僕はどうしても随所で「ああ、ドヴォルザークの新世界で聴いたあのメロディだなあ」という風に感じる。
1楽章Allegretto con spirito (quasi recitativo)、なんてロマンティック。シューマンやショパンの香りもする。ドビュッシーも。この楽章だけでないが、アメリカ的とは言え、ヨーロッパのクラシック音楽の様式が持つ美しさをしっかりと伝えている音楽である。ロマン派や印象派、リヒャルト・シュトラウスやマーラーなど世紀末ウィーンの音楽のような表情も時として見せることがある。キャドマンのソナタは、確実にそれらの伝統があって成り立っているソナタなのだ。
2楽章Andante grazioso、リリカルな歌、どこか物悲しいこの歌が白眉なのは間違いない。どっぷりと浸ってほしい。歌だけでなく、掛け合いや展開も良い。曲の終わりにも注目してほしい。それなりに音楽を聴いてきたクラシック音楽ファンならきっと、ああ、やはりこうなるのかと、納得することだろう。
3楽章Allegro animato、激しい動きの中からも伝わる、濃厚で強烈なアメリカ的雰囲気、ハリウッドか?インディアンか? 一体何を見出そう、いや、そこには紛れもない、キャドマン自身の芸術、「キャドマンの音楽」があるのだ。
「インディアニスト運動」の盛り上がりが終わると、同時にキャドマンの人気も衰えていった。その後は「インディアン音楽で有名になった過去の偉大な音楽家」的な扱いで、自身の芸術音楽作品をアピールするも、結局は生前はインディアン音楽の人であること以上の評価は得られなかったようだ。現代で見れば、その運動の思想も含め文化盗用的に見られるかもしれないが、それは時代の問題なので煩く言うのは違うだろう。何より、キャドマンは、ナチス政権下のベルリン・オリンピックの音楽祭におけるアメリカ音楽委員に任命されたが、ナチスに反対し辞任している。これがネイティブ・アメリカンの音楽を研究した音楽家の態度、我々も敬意を払いたいものだ。しかし売れない作曲家の晩年は悲惨で、ロサンゼルスの質素なホテルで倹約生活を送り、心身共に不調のまま、1946年12月30日に「忘れられた音楽」として亡くなった。今もまだ忘れ去られているだろう。NAXOSの録音が出ているのは僥倖だ。現代の音楽家、評論家諸氏にぜひ、現代の解釈でキャドマンを扱ってほしい。
キャドマン:ピアノ三重奏曲ニ長調/ヴァイオリン・ソナタ/ピアノ五重奏曲
ポズナック (アーティスト), キャドマン (作曲), & 4 その他
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more