フェーベン修道女 エフラタ写本:アメリカの古楽

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フェーベン修道女 エフラタ写本

前回はクセナキスのキレキレ現代音楽合唱だったので、ググッと遡って、古楽の合唱にしよう。古楽は古楽でも、アメリカの古楽だ。
一般的に「古楽」と言えばヨーロッパの音楽で古典派よりも古いもの、つまり中世、ルネサンス、バロックの音楽を指す。この辺りの時代の音楽は独特の魅力があり、僕も専門家ではないので詳しくはないが、古の音楽を様々な学者や音楽家が研究して現代に蘇らせた演奏を聴くのは本当に面白い。本家ヨーロッパのそれも十分に面白いのだけど、やっぱり僕のような捻くれ者は、さらにそこから逸脱したジャンルを聴くことに喜びを感じる。以前ブログで「ボリビアのバロック」について書いたことがあるが、今回は「アメリカのバロック」とでも言おうか、18世紀にペンシルベニア州のエフラタ修道院で作られた全972ページある彩飾楽譜「エフラタ写本」を取り上げよう。米国議会図書館所蔵のこの写本には、アメリカで初めて書かれたと考えられる音楽理論に関する論文や、初の女性作曲家として知られることとなった修道女の名前も記載されている。その一人が「フェーベン修道女」であり、記事冒頭のCDでは彼女のほか、名前の残っていない作曲家たちの賛美歌を聴くことができる。

なお、このエフラタ写本は米国議会図書館のページで閲覧可能なので、興味のある方はぜひ(リンクはこちら)。今年は国立西洋美術館の企画展「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」という中世ヨーロッパの写本展を見てきたが、とても面白かった。この記事は写本展の記念記事ということにしよう。


エフラタ修道院が出来たのは1732年。ドイツから移住した敬虔主義者コンラート・バイセル(1691-1768)が設立した。知っている人は知っているだろう、トーマス・マンの『ファウスト博士』で言及されるバイセルである。ここでこれ以上掘り下げるとめちゃくちゃ大変なので省略するが、宗教的な覚醒を経て独自に指導者の道を進んだバイセルは聖歌についても独自に考え、「主音」と「従音」などのシンプルな理論に基づき賛美歌を作るという方向で、自身の宗教音楽理論を構築した。という話を、マンも人づてで聞いており、取り上げるに至ったそうだ。1750年代初頭には、バイセルを中心に80人ほどがエフラタ修道院で共同生活をしており、その近くにも200人ほどが暮らし、小さなコミュニティをなしていたとのこと。質素で敬虔な生活を送る修道院のメンバーたちに、バイセルは聖歌のための歌詞を沢山書き上げ、作曲や歌唱を促したという。この修道院で作られた聖歌はエフラタ写本以外のものも含め様々な場所に楽譜が残っているそうだ。


写本の中の楽譜にはほとんど作曲者名前が記されていないものの、中には名前が書かれているものもあり、フェーベン修道女(クリスティアナ・ラスル)、ケトゥラ修道女(キャサリン・ハーガマン)、ハンナ修道女(ハンナ・リッチティ)などの名前がある。ハンナ修道女はドイツ生まれで、他は不明。聖歌の歌詞はドイツ語で、バイセル以外のドイツの宗教家たちの詞も含まれている。おそらく、ほとんどがドイツから移住した人たちでできたコミュニティだったのだろう。それでも彼女たちが「アメリカ初の女性作曲家たち」であることには違いない。
ブログを書く上で、作曲家名を「フェーベン修道女」にしたが、その理由は、先述のCDに録音されている聖歌の中で、作曲者が判明しているのが彼女だけだからだ。フェーベン修道女は1717年生まれ。世代としてはグルックやC.P.E.バッハ、シュターミッツ、そしてモーツァルトの父レオポルト・モーツァルトと近い。


エフラタ写本の聖歌を録音した上盤は、長くニューヨーク・ポリフォニーという声楽アンサンブルでバリトンを務めた歌手、クリストファー・ディラン・ハーバートが情熱を注ぎ研究し実現したもの。ハーバートはこの研究でジュリアード音楽院の博士号を取得しており、上盤の録音ではハーバート自身も歌っている。どの曲を聴いても、徹底したモノフォニー、素朴で美しい旋律にシンプルなハーモニーが楽しめる。このような作風にはバイセルの方針や指導があったことだろう。ソプラノの、思いの外に高音が出てくるところなんか驚いてしまう。当時の修道院で歌っていた人の中に、そういう上手い人がいたのだろうと推察される。かと思えば、少し後の時代の宗教音楽では見かけなくなるような、ちょっと変なところでメロディが切れたりしている(ように感じる)ところもあり、いわゆる伝統的な西洋音楽の理論を学んだプロ音楽家とはまた違うんだろうなとも思わされる。それにしても美しい。フェーベン修道女の作と思われる、CD最後の曲“Formier, Mein Töpffer”を聴いてみてほしい。きっと胸打たれると思う。


古楽とはなんだろう。HIP(Historically Informed Performence, 歴史的知識に基づく演奏)とは何だろう。僕の好きな音楽、好きな演奏について、それはHIPでもそうでなくてもだけど、それについて古楽ファンや古楽奏者から「これは正しい、これは間違い」と言われたときに感じる、心のもやもや、あれは何なんだろう。そんなこと思いながら、ヴォーン=ウィリアムズの講演を翻訳してみたり、ブルース・ヘインズの『古楽の終焉』を読んだ。僕も素人なりに、色々考えてみることもある。結論はともかく、考えることそのものが楽しいのだ。
200年も300年も前の楽譜を頼りに、その当時の音楽を完璧に再現することなどできるのか。あらゆるものが変化していく音楽の中で、最も変化が少ないのは間違いなく人の声である。それもアカペラならなおさらだ。バイセルの求めた、複雑さを排し、どこまでも素朴を求めた宗教音楽は、そういう所が強みとも言える。エフラタ写本の聖歌の録音は、18世紀の当時の様子に限りなく近いものだと思う。録音場所も現地である。目を閉じればそこはもうペンシルベニアの修道院だ。海を越え、時を超え、蘇る人の声。

古楽の終焉 HIP〈歴史的知識にもとづく演奏〉とはなにか
ブルース・ヘインズ (著), 大竹尚之 (翻訳)


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Author: funapee(Twitter)
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