ハイドン 交響曲第103番「太鼓連打」:決して負けない強い力を僕は一つだけ持つ

Spread the love


ハイドン 交響曲第103番 変ホ長調 Hob.I:103「太鼓連打」


ハイドンの交響曲の愛称については過去に何度も取り上げている。というか、このブログでハイドンの話をするときは大体、交響曲の愛称の話ばかりしている気がするなあ。2008年に第82番「熊」、2010年に第49番「受難」、2020年に第60番「うかつ者」について書いた。ボクノオンガク読者、通称ボク読(ぼくよみ)の諸君は、僕がクラシック音楽作品の愛称が好きなことをすでにご存知だと思うが(「ボク読」とか勝手な呼称を作るくらいだしな!)、界隈の流れ的には、そういう愛称はあまり使わない方が良さそうではある。ハイドンに限らず、作曲者自身が付けた副題以外は排除されていく流れなんだろう。今のところはまだ「運命」だの「未完成」だの言っても怒られないと思うけど、いずれ「革命」と呼んだ日にはKGBに捕まるかもね。そういえば、子ども同士のあだ名はやめましょうと指導している学校もあると聞いたが、本当だろうか。うちの子たちの学校ではそんなことはなく、可愛らしい愛称で呼び合っている。
大事なのは子ども同士のあだ名を禁止することではなく、人が嫌がる行為を禁止することだが……クラシック曲の愛称は、作曲家が嫌かどうかわからないので難しい。今生きている人なら確認できるのにね。例えば某氏の交響曲に「ゴーストライター交響曲」とかの愛称を付けたとして、本人が「それは嫌だからやめろ」と言ったらやめて差し上げるべきだろうし、「良いじゃんそれ」と言われたら大いに呼んだら良い。それにしても、ハイドンの「太鼓連打」はあまりにタイトル詐欺が過ぎる。めちゃめちゃ太鼓が活躍しそうな印象だが、1楽章の冒頭(と最後の方)にピアニッシモでティンパニのロールのソロがあるからという理由は、いくらなんでも弱すぎるでしょう。もちろんハイドン自身が付けたものではない。ドイツ語ではPaukenwirbel、英語ではDrum Rollと呼ばれてきたが、それだけティンパニのソロから始まるというのは当時にしてはインパクトの大きなものだったのだ。


ハイドンは子どもの頃からティンパニに親しんでいた、という記述もある。James Bladesの著書“Percussion Instruments and Their History”(1992)によると、音楽学校の校長をしていた叔父の元で過ごした幼い頃から、ハイドンはティンパニを演奏していたそうだ。ハインブルクの小さなオーケストラで、欠員が出ると様々な楽器のサポートを務めたハイドンは、前任のティンパニ奏者が亡くなるとその後任を務めることとなり、それからこの楽器への愛着は生涯続くこととなる。1791年、ハイドン59歳のロンドン訪問時には、自作の交響曲の演奏でティンパニを披露し、オーケストラから絶賛されたという。
またイギリス音楽界の指導者として知られるサー・ジョージ・スマート(1745-1818)は、1794年にロンドンで行われたハイドンが自作を指揮するザロモン主催の演奏会のリハの様子を語っている。

あるコンサートのリハーサルでティンパニ奏者が欠席していました。ハイドンは「オーケストラの誰も太鼓を叩けないのか!」と尋ねたので、私は即座に「できます」と答えました。「叩きなさい」とハイドンが言いました。愚かなことに私は、厳密にタイミングを合わせて叩けばいいだけで、それくらいできるだろうと思っていました。ハイドンは指揮台から私のところへ来て、タイミングが合っていることを褒めてくれましたが、私がスティックを斜めではなく真っ直ぐに下ろし、ティンパニの上に長く当てすぎて振動を止めていることに気づきました。ハイドンは「ドイツのティンパニ奏者は振動を止めないように叩くやり方を知っている」と言って、その叩き方を私に見せてくれました。私は「大変良いですね、もしお望みであればイギリスでもそのようにします」と答えました。つまり、私に初めてティンパニの演奏を教えてくれたのはハイドンだったのです。

やはり自分で叩けるだけあって、ハイドンのオーケストラ作品におけるティンパニの使い方は巧みである。ロンドン交響曲の中で言えば、第100番「軍隊」の2楽章や、第102番でのミュートなど、同時代の音楽の中でも頭一つ抜けたこだわりが見られる。第103番「太鼓連打」が初演されたのは1795年3月2日、翌日の新聞評でも絶賛され、そこで「深い興味をそそる序奏」と書かれたのには、ティンパニのソロによる開始も一役買っているだろう。
現代の奏者、そして愛好家たちにとっても、このたった一小節のティンパニの開始がどのようなものであるかは大きな問題だ。ロールは粗いか細かいか、16分音符を12個均等に叩くべきなのか、クレッシェンドやディミヌエンド、あるいは頭にアクセントしても良いのかどうか、また最後の方のソロは冒頭と同じにするのかどうか、などなど、ティンパニ奏者や指揮者のセンスが問われる。録音も多いので、聴き比べるのも楽しい。何しろ1小節目なので簡単に聴き比べられる、なんて言ったらさすがに不遜な態度かしら。その後に続く序奏でファゴットの音が聴こえるかどうかも聴き比べたら良いかな。

そうは言いつつ、この曲が愛される理由はティンパニよりも他の要素の方によるところが大きいようにも思う。1楽章の序奏以降も良いし、2楽章のアンダンテもハイドン交響曲の中では「驚愕」に並ぶ屈指の緩徐楽章だ。2つの主題による変奏曲であり、この主題はクロアチア民謡によるものだそうだが、特に「F#」の音が絶妙にいい味を出している。シンプルなことだけど、これだけでこんなに魅力的になるのかと驚いてしまう、むしろこっちがびっくり交響曲である。
3楽章のメヌエットはレントラー風、ハイドンの巧みなオーケストラさばきが良い。ティンパニの生む勢い、管楽器と弦楽器の組み合わせ方による様々な音色の楽しさ、それらがリズムとアクセントが小気味よい主題と相まって高い完成度の楽章をなす。4楽章はベートーヴェンの運命、じゃなくて交響曲第5番の1楽章の動機みたいに、4つの連続音が構成していくフィナーレ。この楽章の冒頭も印象的だ、ティンパニではなくてホルンだけど。しばらく弱音の時間が長く続くのも少し風変わりである。簡潔でエネルギッシュではありながら、全体的に弱音が多い終楽章のように思うが、どうだろう。その分、強奏時の印象は大きい。
ハワード・シェリー指揮スイス・イタリアーナ管の録音の解説では、リチャード・ウィグモアがこの曲の序奏について、ベートーヴェンの第九とシューベルトの未完成を引き合いに出し、それらに先立つ最も神秘的で不吉なオープニングだと書いている。確かに「怒りの日」に似た序奏は凶兆っぽさを感じなくもないが、第九や未完成に比べると一瞬で終わってしまうし、特にハイドンは宗教曲ではなく交響曲だと、そこまで深刻なものは個人的には感じられない。多分、ロンドンの人たちに面白いものを見せてやりたかったくらいのものなんじゃないか。この曲に「怒りの日」という愛称は付かないだろう。それよりも「理由はよくわからんけど太鼓の連打から始まる曲」くらいの愛称が適していると思われる。僕は学生時代、吹奏楽部でパーカッションだったので「太鼓連打」という文字列にワクワクしてこの曲を初めて聴いたときに「え、連打っていうのに、これだけ……?」と不意打ち食らった結果、逆に意味わからん曲だなと思いこの曲が好きになったので、この愛すべきナイスな愛称は無くならないでほしいし、初めての人はネタバレ食らわないで聴いてほしいなあ。なんて、ブログに書いておいて言うのもなんだけどね。聴く前に読まないでね。もう遅いか。ごめんね!

Percussion Instruments and Their History
James Blades


ここまで読んでくださった方、この文章はお役に立ちましたか? もしよろしければ、焼き芋のショパン、じゃなくて干し芋のリストを見ていただけますか? ブログ著者を応援してくださる方、まるでルドルフ大公のようなパトロンになってくださる方、なにとぞお恵みを……。アマギフ15円から送れます、皆様の個人情報が僕に通知されることはありません。応援してくださった皆様、本当にありがとうございます。励みになります。ほしいものリストはこちら

Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

にほんブログ村 クラシックブログへ にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ 
↑もっとちゃんとしたクラシック音楽鑑賞記事を読みたい方は上のリンクへどうぞ。たくさんありますよ。

Spread the love

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください