フローレンス・プライス 交響曲第1番 ホ短調
1893年5月、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙はドヴォルザークのインタビューを掲載した。そこでドヴォルザークは次のように語っている。
「私は今、この国の未来の音楽はいわゆる黒人音楽の上に築かれなければならないと確信している。これこそが、合衆国で発展する真摯で独創的な作曲の流派の真の基礎となるに違いない」
この言葉は大いに議論を巻き起こしたそうだ。“Real Value of Negro Melodies”と題されたインタビューで、当時の紙面も公開されているので興味のある方は見てみてください。

このブログのメインコンテンツであるクラシック音楽の楽曲紹介記事は、前回が記念すべき第600回だった。有名なシューベルトの未完成交響曲について取りあげたのだが、そこでも触れている通り、有名な副題のある曲はもう昔に取り上げてしまっているため今読むと大した内容もなく気恥ずかしい。ドヴォルザークの「新世界より」は2009年に書いていて、そのときも上述のドヴォルザークの言葉を引用した。
今回取り上げるのは、アメリカ初の黒人女性作曲家として近年注目を集めるフローレンス・プライス(1887-1953)の交響曲第1番。1932年に作曲され、当時の作曲コンクールで1位を獲得、翌年シカゴ響によって初演された。最近の女性作曲家の再評価の流れにおいては、2021年にネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管が録音してDGからリリースしたことが大きいだろう(記事冒頭の画像のもの)。彼女の名を現代で再び有名にするのに大きく寄与した。ある程度クラシック音楽に親しんだ人ならば、プライスの交響曲第1番を聴けば、すぐにそれがドヴォルザークの「新世界より」の影響を受けていると気づくはずだ。ドヴォルザークの死から約30年後の作品であり、まさしく黒人音楽を礎にした、ドヴォルザークが言うところの「合衆国の未来の音楽」である。
1887年、ジム・クロウ法の時代のアメリカ南部、アーカンソー州リトルロックでプライス(旧姓スミス)は生まれた。父は市で唯一のアフリカ系アメリカ人の歯医者で、母は音楽教師。当時の状況下にしては尊敬を集めた方だったそうだが、それでも市内の有名な白人の音楽教師は彼女の指導を拒んだため、母が音楽を教えたそうだ。ニューイングランド音楽院に進学しチャドウィックやコンヴァースに師事。卒業後はアーカンソー州やジョージア州の黒人学校の教職に就き、1912年に結婚。二人の子を育てながらピアノスタジオを経営し、子ども向けの教育音楽も作曲した。
1927年にリトルロックで黒人リンチ事件が起こり、多くの黒人たちがジム・クロウ法から逃れるべく北部へ脱出すると、プライス一家もシカゴに移住。1931年に経済的理由と夫の虐待が原因で離婚するが、シカゴでは幾つかの大学に籍を置き、音楽をはじめ幅広く学ぶとこができた。人脈も広がり、作曲家としてのキャリアが本格的になる。シカゴの黒人女性ピアニストとして頭角を現してきたマーガレット・ボンズと同居したことから、ボンズを通して作家ラングストン・ヒューズやコントラルト歌手マリアン・アンダーソンと知り合う。ボンズはプライスの作品を積極的に演奏し、1934年にはシカゴ万博でプライスのピアノ協奏曲(シカゴ音大の卒業式でも演奏し、その際はプライス自身が独奏を務めた)を、シカゴ女性交響楽団と演奏した。このピアノ協奏曲もまた傑作で、当時も絶賛。↓のNew Black Music Repertory Ensemble盤は交響曲第1番と共にピアノ協奏曲も収録。2011年録音。僕が初めて聴いたプライスの音源でもある。最近はチネケ!オーケストラが2022年録音で同じ組み合わせ(プラスもう1曲)の音盤をリリースしている。ぜひピアノ協奏曲の方も聴いてみていただきたい。

FLORENCE B. PRICE
Piano Concerto in D Minor / Symphony No. 1
New Black Music Repertory Ensemble
Leslie B. Dunner, Karen Walwyn

Florence Price: Piano Concerto in One Movement; Symphony No. 1 in E Minor
ジェネバ・カネー=メイソン, フローレンス・プライス & チネケ!オーケストラ
シカゴに住むまでプライスはオーケストラとの関わりが全くなかったので、交響曲を書くことに全くの興味を持たなかったそうだが、全米黒人音楽家協会の主催するコンクールは賞金も大きく、ボンズと共に挑戦した。プライスは管弦楽部門で1位を獲得。指揮者フレデリック・ストックの目に留まり、シカゴ響と万博で初演。これがアメリカの主要オーケストラによるアフリカ系アメリカ人女性作曲家の作品の演奏としては史上初のことだった。
伝統的な4楽章構成で、1楽章と2楽章が15分くらいあるが、3楽章と4楽章は短く5分程度。これもドヴォルザークの「新世界より」に近い形と言える。
もっとも、あまり新世界、新世界と言わない方が良いのは僕だってわかってはいる。コールリッジ=テイラーも挙げろと宣うクラシック玄人ファンの声もわかる。1930年作曲のウィリアム・グラント・スティルのアフロ・アメリカン・交響曲もかしら。というか、僕自身は初めは全く解説も何も読まずに聴いたので(10年前くらいだろうか)、ネタバレなしで聴いて「うおお!めっちゃドヴォルザークの新世界じゃないか!」と興奮したんだけど、これを読んでいるまだ曲を聴いたことない人にはネタバレしてしまってごめんなさいと先に謝っておこう。

第1楽章Allegro ma non troppo、ファゴットから始まるのがまた良い。まるでシベリウスのような世界観、だがすぐに新世界交響楽が現れる。もうリズムもメロディも進行も、管も弦も打も全て新世界のパクリオマージュ。ただ、オマージュしただけだと言うものでもない。この手法を取ったことで逆に何か、彼女のオリジナリティが浮かぶようにも思う。曲の終わり方もちょっとクセがある。
第2楽章Largo, maestoso、讃美歌のような主題が美しい緩徐楽章。オルガン奏者としても活動したプライスらしさが出ていると言える。響き渡る金管のコラールに、アフリカンドラムも神聖さをもって聞こえる。独特な雰囲気だ。チューブラーベルが入るのは初演会場であるシカゴの劇場に備え付けのオルガンのストップを使うからだ、というようなことがCD解説にあったが、どういうことかしら。オルガンのパイプを叩いたら壊れそうだけど……取り壊す予定だったとか?
第3楽章はJuba dance、これが実に良い。この楽章で賞を獲ったんじゃないかと思うほど。Juba danceとは足踏みやボディーパーカッションなどを含んだアフリカの伝統的な踊り。そうしたリズムを模したシンコペーションのメロディは陽気で楽しく、スライドホイッスルも鳴って楽しいことこの上ない。あっという間に終わってしまうのが惜しい。なんなら第4楽章Finale: Prestoもそう、ドヴォルザーク風、狂乱の踊り。ルーツを感じさせる雰囲気と、交響曲のフィナーレらしい推進力のある舞曲の雰囲気の両方をしっかりと醸し出している。それにしても短い。これもあっという間に終わる。3楽章と4楽章を2部構成の舞曲として一まとまりと捉え、三楽章の交響曲として考えれば構造の魅力もあると言えなくはないが、僕はあまりそう思えないのが本音だ。それは単純に3, 4楽章の舞曲を足しても時間的に1楽章と2楽章に満たないというだけでなく、1楽章と2楽章が冗長に感じるせいもある。1楽章はまだしも、2楽章が長く感じるのは変化の少なさのゆえだ。独特な音色、色彩感のおかげで特に初聴きの人ならそう感じない人も多いだろうが、驚きは最初がピークで、聴き慣れてしまうと目減りする。その点ドヴォルザークは奇を衒わないのでそういう心配はない、もっとも、新世界は世の中の流通量が多すぎてもう飽き飽きだと辟易する人はいるだろうが。
はじめの2つの楽章は丁寧にドヴォルザークをなぞっていたのに、突然の方針転換があったように、短く愉快な舞曲が2連発。どうにも奇妙だが、その脈絡の無ささえも吹き飛ばすだけの魅力が、後半2楽章にはあるのもまた事実。今その瞬間に鳴っている音の楽しさ。それは巧みな作曲技法、色彩、センス、個性が溢れているからこそのものだろう。ドヴォルザークのインタビュー記事、Real Value of Negro Melodiesという言葉をもう一度思い浮かべる。
ここまで「まったく同じじゃないか!」と「まったく違うじゃないか!」という二つの感想が同居してしまう作品もそうないように思う。極めてわかりやすく、悪い言い方をすれば馬鹿でもわかるように伝統を受け継いで、そして破壊している。それが黒人女性の交響曲というモニュメンタルな機会で、あまりにも鋭い適時打になった。必要十分に保守的で、必要十分に革新的で、これこそが「合衆国の未来の音楽」に他ならなかった。
プライスの作品は、2009年に彼女の別荘から楽譜が発見されたおかげで再評価が始まった。まだまだこれから。どう解釈され、どう演奏されるのかが楽しみだ。プライスの交響曲が適時打としてサヨナラ勝ちをするほど点を得た時代はとうに終わっていて、今のこの新世紀、下手にプライスの交響曲第1番なぞ祀り上げようものなら、それこそ僕はドヴォルザークの新世界交響楽の返り討ちに合うと思う。普遍的、なんていうと一部の賢い方々から西洋音楽の奢りだなんだと言葉狩り攻撃をされそうだけども、よく原状を見てもらえばわかる通り、今もなお地平線の果てから湧き上がるようなドヴォルザークの新世界交響楽の持つ力は異次元のもので、21世紀でもその魅力は変わらずに存在し続けていると言える。ではなぜ敢えて、プライスの交響曲なのか。21世紀、ドヴォルザークではなくなぜプライスでなければいけないのか、そんなものがビンビンに伝わる演奏が出現するのを期待しようじゃないか。女性だから価値がある、黒人だから価値がある、そう主張する往年のタイムリーヒットの再放送で、果たして現代の芸術の矜持が保てるか! プライスの交響曲は、新世紀の新世界交響楽たりえるのか否か。今後ますます注目の集まる音楽だ。
Author: funapee(Twitter)都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more







