カステルヌオーヴォ=テデスコ プラテーロとわたし:人の心の記憶は、なんと頼りないんだろうね!

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カステルヌオーヴォ=テデスコ プラテーロと私 作品190

カステルヌオーヴォ=テデスコのギター作品「プラテーロとわたし」(1960)は、スペインの詩人J.R.ヒメネス(1881-1958)による同名の散文詩集の朗読伴奏曲として書かれたギター音楽だ。若きヒメネスが愛するロバのプラテーロに語りかける形で綴られた詩集は子どもから大人まで世界中で親しまれている人気作であり、その人気からテデスコの音楽も盛んに演奏されてきた。前回の記事で鳥の音楽を選んだ理由を述べたのと同じように、今回もなぜこの作品を挙げたいと思ったか、理由から書こう。

演奏頻度もそれなりにあり、録音も結構ある。日本では特に大萩康司さんのギター演奏と波多野睦美さんの訳・朗読による2018年の録音が、最近出た新しいものとしては有名だろう。今年は幸運なことに、あまり普段ギターの演奏を聴きに行くことのない僕だけども、春に大萩さんのギターリサイタルを聴きに行けた。そのことも、この曲をブログに取り上げようと思った理由の一つだ。

プラテーロとわたし (波多野睦美による新訳版朗読) [2CD] [国内プレス] [日本語帯・解説・歌詞訳付]
大萩康司, 波多野睦美, マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ (作曲)


とはいえ大萩さんのリサイタルで「プラテーロとわたし」を聴いたわけではないのだが……ただ、今年はまだギター作品の話題でブログを書いていなかったし、夏にはロベルト・モロン・ペレスの弾く「アンドレス・セゴビア・アーカイブ」シリーズを聴いてツイートしたのもあって、セゴビアと縁ある作品を取り上げたかったのもある。


テデスコはセゴビアと出会ったのがきっかけでギター曲を書くようになった、という話は以前の記事でも触れたが、本作もその交流が生んだ音楽である。セゴビアが演奏した録音も残っており、↓の「セゴビア・コレクション第5集」などで聴ける。このジャケットの絵も素敵だ。原作で「わたし」がギターを弾くことはなかった気がするが、どうだったかしら。

セゴビア・コレクション第5集 / カステルヌオーヴォ=テデスコ作品集


ヒメネスが「プラテーロとわたし」を発表したのが1914年で、彼が亡くなったのが1958年。テデスコは1960年にヒメネスの詩集「プラテーロとわたし」全138編から28編の詩を選び、朗読とギター伴奏を想定して作曲した。翻訳を元に様々な言語で朗読され、それに合わせて演奏もされてきたが、テデスコは朗読なしでも成り立つと考えており、セゴビアは自身の演奏会でギターのみの演奏を行ってきた。セゴビアの1960年代の録音は後の時代の多くの奏者たちに影響を与えたはずだ。
もし原作を読んだことがなければ、聴く前に読んだ方がいいのは、まあ一般的に言えばそれはそうなのだが、別に全く知らないで聴いてもスペインの情景が描かれた美しい音楽を楽しむことができる。おそらくセゴビアが自身のリサイタルで何曲か演奏した際なんかは、どの曲がどの詩の場面に該当するかを聴衆が知っている前提で演奏したのではないだろう。いわゆるスペインの情緒を湛えたコンサートピースとして演奏したはずだ。だから28曲全てを「スペイン風ギターBGM」のように流してみるのも悪くないし、何曲かかいつまんでお試しに聴いてみるもよし。そうやって空気感から感じてみて、その後に朗読あり録音を聴いてみるというのも面白いかもしれない。もちろん、いきなり朗読ありバージョンとじっくり向き合うのも良いだろう。


先に挙げた大萩/波多野盤は日本語の朗読なので音楽と情景がリンクしやすい。曲順も原作通りの順番に並べ直している。テデスコの作品では7曲がひとまとまり、第1巻から第4巻までの計28曲だが、どの巻もラストの第7曲目にプラテーロとの別れ(死)に関する内容の詩を配置しており、普通に順番通り第1巻の頭から第4巻の終わりまで演奏すると、都合プラテーロが4度亡くなることになる(と言ってしまうと語弊があるけども)。大萩/波多野盤では最後に各巻の第7曲を4つ並べて、原作に近い形で締めくくっている。
この音盤は新しいし、日本人による日本語の演奏なので日本語のレビューやおすすめ記事も多く、ボクノオンガクのようなひねくれたクラシック音楽ブログでどうこう言うこともない。検索したらいくらでも正しい情報は出るし、ご本人たちのインタビュー動画もまだあるはず。じっくり楽しんでいたきだい。


さて、僕が推したいのは冒頭に挙げたニクラス・ヨハンセンの2025年録音である。どうですか皆さん、良いでしょう、このジャケットに描かれた絵が。今までにも多くの本の表紙や音盤のジャケットにて幾度となくプラテーロ(とわたし)が描かれてきたが、そのどれよりも僕は好きだ。いやそんなに本の表紙の方は知らないけど……なんでしょうね、この雰囲気。漫画チックなところも良い。線の太さや色合いの明るさもあって、このプラテーロ、妙な愛くるしさがある。目が良いのかもしれない。大好き。大萩/波多野盤の表紙(銅版画家の山本容子さんの作)も素敵だけど、この二つを比べると同じ音楽を扱っているとは思えないほどだ。まったく別ジャンルのようにすら思えてしまう。いやあ、美術って凄いですね。
ヨハンセン盤の表紙は、デンマークの漫画家・イラストレーターのHalfdan Pisketという人が描いており、検索するとわかるが、結構ダークな作風の絵が多く出てくる。そのダークさはブックレット内の挿絵にも少し表れている。もちろん『プラテーロとわたし』は明るいだけの物語ではないし(英訳では“Platero and I : an Andalusian elegy”と題しているものもあるし、邦訳でも『プラテーロと私 抄―アンダルシア哀歌』とするものもある)、だからと言って変にシリアス過ぎるのもまた原作の雰囲気を損ねるようにも思うし、その辺りが絶妙である。ヨハンセン盤は朗読なしで全曲を録音。第1巻から曲順に演奏している。ブックレットには全ての曲で詩の英訳と挿絵付き。朗読がない分、ギターの音を存分に味わうことが可能だ。ギターに詳しくないので偉そうに言うことはできないけど、演奏も申し分ない素晴らしさ。
朗読なしのものだと、抜粋録音は多いけれど全曲録音は意外と少なく、カテリーヌ・リョリョスの演奏による2003年録音があるが、これも大萩/波多野盤と同じく順番を入れ替えている。第7曲を4つ最後に演奏するのも同じ。こちらの表紙のプラテーロもかわいい、まるで子どもの国語の教科書にでも載っていそうな絵だ。

Platero y yo, op. 190
Catherine Liolios, guitar


1曲ずつあれこれ言っていたら日が暮れるので省略するが、第1巻第1曲「プラテーロ」の、「わたし」がプラテーロに乗ってゆっくり動く様子からもう趣深くて、これから始まる音楽たちに耳を傾けようという気にさせてくれる。このリズムは僕のお散歩脳内BGMになりがちな團伊玖磨の曲も彷彿とさせる。穏やかである。
どの曲も魅力たっぷり。詩の中に子どもたちが登場すると、音楽もスペイン風の情緒を増すというか、民謡のような趣きが出てくる、ちゃんと全て確認したわけではないけどね……でも、そういうものなのかもな、とは思うよね。そしてやはり各巻の第7曲は、非常に胸を打つ音楽になっているのもさすがだ。ヒメネスの意図通り、最後にそれらをまとめて28曲ある長編のように語るのはもちろん一つの正解の形だが、テデスコの意図を取るなら、7曲ごとにプラテーロの別れと直面するのも、僕は良いものだと思う。何しろプラテーロはもうとうに故郷の土に眠っているのだし、ヒメネスもテデスコも、天国に渡って久しいのだし、クラシック音楽として「昔語り」をするならば折々で愛すべき友を回顧する表現に違和感などない。というか、そういう語りに不慣れな現代人など今やほとんどいない時代だろう。
せっかくなので、僕の好きな鑑賞方法――つまり最新の録音で素晴らしいギターの演奏と意味の分かる日本語の朗読で味わうのとは「対極にあるような」鑑賞方法を一つ提案したい。それは、ギターのみの録音をあえてローファイなオーディオで聴くことだ。幸いギターソロはオーケストラなどと違って、再生機器がしっかりしていなくても聴き取りやすい方だし、それを味として捉えることもできる。カーオーディオでもいいし、なんならスマホのしょぼいスピーカーでもいいが、流しながら長閑な道を散歩したりゆっくりドライブしたりするのも、なんだか気分がいい。そんな聴き方が合う音楽と合わない音楽が世の中にはあるが、これは合う方の音楽だろう。逆に、どちらかといえばコンサートホールで真正面から対峙する方が異色なのではないかとすら思う。セゴビアの古い録音でも、ヨハンセンでもリョリョスでも、山下和仁の抜粋盤でもいい(山下さんは全曲朗読付き録音もあるが、そこからギターのみ抜粋した盤も出ている)。色々な楽しみ方ができる、良い音楽だ。
そうは言いつつ、ぜひ、原作も手に取ってみてください。そしてテデスコの作品に選ばれなかった他の詩、特に最後の方、プラテーロの死に関する部分では僕の大好きな「ボール紙のプラテーロ」と本当に最後の最後の「故郷の土に眠るプラテーロ」が選外なので、音楽を聴いたらぜひそれらも読んでいただきたい。

クラシック音楽は過去の記憶を今に伝えるものとも言える。本物のプラテーロはヒメネスしか知らないのに、ヒメネスの記憶はこの素晴らしい文学作品と音楽作品によって、テデスコ、セゴビア、あるいは他の多くのギタリストや翻訳者らを通して、我々の記憶へと繋がるのだ。そうしてプラテーロは、世界中の人の心の中で永遠に生きる。この「プラテーロとわたし」という作品は、いや全ての素晴らしい文学や音楽といった芸術作品は、ときに「本物よりも本物らしく」人の心の記憶を伝えることがある。それが芸術の存在意義なのではないか、と、この作品に触れるたびに思う。芸術は何のためにあるのか、文学とは、音楽とは、人間のどんな営みなのか。そんなことも考えてしまう。送る者が愛を込めて送り、受け取る者が愛を注いで受け取れば、いつ消えるとも知れぬ頼りない人の心の記憶もきっと、いつまでもいつまでも、永遠に繋がっていくことだろう。最後に「ボール紙のプラテーロ」から引用して終わりにしよう。

プラテーロ? 人の心の記憶は、なんと頼りないんだろうね! このボール紙のプラテーロが、今では本物のおまえよりも、ずっとプラテーロらしく見えるのだよ、プラテーロ……

プラテーロとわたし
ファン・ラモン ヒメネス(著), 長新太(イラスト), 伊藤武好・伊藤百合子(翻訳)


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Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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