團伊玖磨 ブラス・オーケストラのための行列幻想
好きな曲だけど、楽曲解説はできません。橋本音源堂さんのページが非常に詳しく書いてあり、面白いので紹介しておきます。
何かしら解説らしいことを書こうとすると上の記事のパクリになってしまいそうだ。2017年に書いたのを2023年に再編集したものとのこと。僕が高校生の頃にこの記事があったら読みたかったなあ、と悔しい気持ち。僕は高校と大学の頃に吹奏楽をやっていて、「行列幻想」を演奏したことはないけれども、これはお気に入りの曲だった。團伊玖磨(1924-2001)は言わずと知れた日本の作曲家。童謡「ぞうさん」の作曲者として知られている。吹奏楽曲なら「祝典行進曲」の方が有名だろう。1959年、今の上皇ご夫妻のご成婚を祝した曲で、しっかりとした行進曲。「行列幻想」はマーチではなくコンサートピースであり、それも気に入っていた理由の一つだ。今はあまり聴き返すことはないが、それでも突然、頭の中でこの曲のメロディーが流れてくることがある。当時何度も聴いていたから染み付いているのだろう。クセになる音楽である。
第1楽章「男の行列」、第2楽章「女の行列」、第3楽章「そして男と女の行列」というタイトル。なんだこのタイトルは! 若い頃は「ふざけたタイトルだなあ」と友人たちとひとしきり笑ったものだが、現代ではマイノリティへの配慮に欠けていると批判されるかもしれない。1977年作曲なので許してあげてほしい。もっとも、音楽界隈では今や團伊玖磨作品を聴く人の方がマイノリティかしら。
行列幻想(Procession Fantasy)というタイトルも不思議だ。吹奏楽といえば行進曲。しかしここでは行進ではなく行列だ。行列とは列をなしていることであって、進むかどうかはあまり関係ないはず。昔から「◯◯の行列」というクラシックの名曲はいくつかあるが、どれも行進ほど進まないけど全く進まないこともない、ちょっとずつ進むような曲が多い。元気良く進むこともないね。つまり行列とは「ゆっくり行進曲」である。そんな理解で良いのか。良くなさそうだな。しかもそこに「幻想」が付く。一体全体どういうことなんだろう。
僕はゆっくり歩いているときに、この曲の第1楽章「男の行列」が突如脳内に登場することがある。残念ながらラーメン屋やテーマパークの行列に並んでいるときではない。そもそも行列嫌いだし。どうしても仕方ないときは並ぶけど「並んでも食べたい名店」みたいなのは余程でないとパス。並ばないで済むタイミングで行くようにする、そういうタイプである。それはともかく、この楽章が自分の歩調とぴったり合うときがあるのだ。ホルンの伴奏、このタータタ、タータタのリズムはもちろん、ぴょこっと頭を出す四度の音程が絶妙にクセになる。この音程が幻想なんだなと、勝手に解釈している。全体は至極真っ当な行進曲であり、格式高さもある素晴らしい音楽だ。古い日本のマーチを基礎にして、そこにほんの少しだけ洒脱さも感じる。重々しさ、ほの暗さ、そんな「日本古来」とでも言えば良いのかしら、軍楽隊の空気をまとっていて、管楽器が重なる音に必然性がある。よくある吹奏楽曲の「それオケでやればいいじゃん」という無粋なツッコミは、このコンサートピースに関しては一切当たらない。ブラス・オーケストラの魅力である。
第2楽章「女の行列」は緩徐楽章、このメロディーも抜群に美しい。さすが團伊玖磨、歌心のある音楽だ。割とそれ一本槍で戦っているが、あくまで管楽器それぞれの音色とその組み合わせにフィーチャーしているとも言える。バンドの力量次第だが、説得力を持たせることは可能だろう。ただ、普通に考えたらこの楽章から行列の要素を感じることはほぼ不可能である。ただし「エルザの大聖堂への行列」を前提とするなら、まあこれも一つの行列と取ることはできる。「エルザはの大聖堂への行列」は結婚式BGMの定番であり、僕も自分の結婚式ではオルガンで弾いてもらった。これは当然、ゆっくり進むのに相応しい。「女の行列」はそこまでではないにせよ、似たような微弱な推進力があるし、後半はコラール風と言えなくもない。「男の行列」が新郎入場で「女の行列」が新婦入場ってか。すると3楽章はどうなる? あまりこじつけは良くないけど、それならば「男の行列」の冒頭だってグリーグのペール・ギュントの「婚礼の行列」を彷彿とさせないこともない。こじつけだね。
そんでもって「男の行列」と「女の行列」の要素を混ぜて格好良いフィナーレにまとめあげたのが第3楽章「そして男と女の行列」。第一主題の終わり方がめちゃくちゃ團伊玖磨っぽいなあと感じるのは、「筑後川」の「河口」の序奏と同じだからか。僕自身は歌ったことはないが「筑後川」は大好きな曲。現田茂夫指揮九州交響楽団による「筑紫讃歌」と「筑後川」の2009年Live録音は愛聴盤である。僕は全く九州には縁がなく、長崎に一度行ったことがあるだけなんだけど、自分の地元にこんな良い音楽があるなんて羨ましいなというのが、信濃川と阿賀野川の民として思うところである。話が逸れてしまった。この楽章はフニクリ・フニクラみたいなノリで進むのも面白いところ。男と女の行列はタランテラなのか。ああ、ああ、踊らされるんだね……男女って、人生って、そういうものなのかな。いや、これもギリギリ行進曲であって、ほぼ舞曲。行列とはなんぞや。タランテラって古い絵画とかでも見られるように、もっとわちゃわちゃ踊っているイメージだけど、日本人ならきちんと整列して列をなして踊ることもできそうではある。これぞジャパニーズタランテラ、鬼のパンツのように強く、ナポリタンのように美味い。
適当に語ってしまい恐縮至極である。大した内容書いていないけど、正直、この記事にどのくらいアクセスがあるかは楽しみでもある。僕が思っているより人気なのか、どうなのか。そこのあなた、おじさん&おばさん読者の方(失礼!)はご存知の作品だと思いますが、今の若い吹奏楽人は知っているのかな。演奏したりするんだろうか。
僕は中学生の頃に「筑後川」を知ったおかげで、團伊玖磨に興味が湧いたし、高校生の頃に「行列幻想」を知って好きになったおかげで、大学生になってからDECCAの交響曲も買おうと思えた。多分、いきなり中学生の頃に團伊玖磨の交響曲を聴いても、自分にはピンとこなかったかもしれないなと、今振り返って思う。自分の成長段階の要所要所で良い音楽に巡り会えて、それがまた次に繋がった。團伊玖磨の音楽との出会いに関しては、幸運だったな、ありがたかったな、という気持ちを抱いている。
そりゃもちろん、J-POPの合唱曲だって結構な話だが、「筑後川」の「河口」なんかはやはり、それらとは一線を画すような、得体のしれない類の感動が押し寄せてくる。あるいは、よくわからん吹奏楽専業邦人作曲家のよくわからん吹コン専用作品だって、一生懸命練習して一夏を過ごせばそれはそれで何かしら得るものはある。だが「その先」には何かあるのだろうか。そこから「次へ」繋がるものなのかどうか、甚だ疑問である。その先、その次が何を指すのかは人によって様々だろう。ただ僕には確かに「次」の音楽があって、さらに「先」にある世界へと繋いでくれたこの吹奏楽作品、團伊玖磨の「行列幻想」には特別な思いがあるという話だ。2016年には新国立劇場で團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を見た。それを見たこと、もっと言えばそれを見たいと思えたことも、ここでいう「その先」であり「その次」なんだろう。
吹奏楽の話をすると、ついつい悪口ばっかり出てきてしまうので自重したいとは思うんだけども(笑) 吹奏楽でも邦人作曲家の話でも、僕より詳しい人の話が、特に「日本語で」ネット上に溢れているので、詳しい話は多分これからも書けないなと思う。でも、これくらいラフにブログ書くならアリかも。気が向けばまた適当に書こう。
僕の團伊玖磨鑑賞歴においては、この「行列幻想」の次があったわけだし、今だってその先へ先へと進んでいる最中である。また聴いて、また書きたくなったら書く。そうしたいと思わせてくれる奥深さや面白さがあるんだよな、團作品には。

都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more