ベインズ 楽園の庭
ウィリアム・ベインズ(1899-1922)というイギリスの音楽家がいる。生没年を見ればわかるように短命だったが、ピアノ独奏曲だけでも150曲近い作品を残している。ヨークシャーの町ホアベリー出身の作曲家・ピアニストだ。
ベインズの父は映画館の音楽監督兼ピアニスト、また教会のオルガン奏者だったそうで、ベインズも幼い頃からピアノを学んだ。12歳で初めて作曲、ヨークに移住し18歳で初のリサイタルを開催。19歳で陸軍に従軍すると3週間の訓練の後すぐに体調を崩し、除隊後は演奏活動から作曲活動をメインにするも結核のため23歳で亡くなる。ピアノ作品はイギリスのピアニストが弾いた録音が数少ないが残っており、記事冒頭に貼ったDivine Artレーベルの作品集はベインズ没後100年を記念して企画されたものである。ダンカン・ハニーボーンの演奏。ジャケットの写真の人物がベインズだ。
また録音は見当たらないが、ベインズが17歳の頃に書いたという交響曲ハ短調が1991年に初演されているそうだ。
アルバムを通して聴けば、ピアノ音楽のファンであればスクリャービンを思い起こすかもしれない。もちろん、ショパンやドビュッシー、リスト、ラヴェルの影響も聴き取れるが、この独特の和声はやはりスクリャービンに似ている。しかしアメリカの音楽評論家A・ウォルター・クレーマーによると、確かな筋からの情報ではベインズはスクリャービンの音楽を一つも知らずに生涯を終えた、という。まあそういうこともありうるだろう。
今回取り上げるのは、Divine Artレーベルのアルバムでは1曲目に収録されているParadise Gardens(楽園の庭)というピアノ独奏曲。10分程の長さがあり、ベインズ作品の中では長い方である。これが非常に美しい。
Slowly – with delicacy and much expressionと指示された冒頭の主題、ここからの展開の仕方も絶妙である。和声の魅力はもちろん、独特の浮遊感もあるがそれでも骨のある構造もまた良い。場面も流動的に移り変わるものの、あくまで庭の中の景観で収まっている。静謐だが熱いものも秘めており、クライマックスも素晴らしい。
1930年のMusical Opinion誌では「ヨーク・ミンスターの壮大さと、夕日から黄金色の栄光の洪水を浴びた澄んだ川が、ベインズにこの印象的な作品を書くインスピレーションを与えた」と書かれたそうだ。なるほど。確かにそんな風景も似合うかもしれない。僕の大好きな画家、ターナーの絵画を貼っておくので鑑賞の際にはぜひこちらもあわせてどうぞ。『ウーズ川沿いで、遠方にヨーク・ミンスターを望む』という作品。光り輝く川の水面。遠くに大聖堂が意味ありげに浮かんでいる。

ターナーの絵を見ながら聴いて満足していたら、また別の記述を見た。それはベインズ自身が「楽園の庭」について書いたものだ。1918年6月3日、ベインズがヨーク近郊を母と弟と散歩した時のことを日記に記している。
「昨晩、母とテディと私は車でハクスビーまで行き、そこからとても楽しい散歩をした。美しい夕べだった。家に帰るとき壁の方へ行くと、ヨークにあるステーションホテルの庭園を見下ろす美しい景色に出会った。濃い緑の葉の間から、美しく花が飾られた敷地が見え、中央では小さな噴水が揺れている。完璧な青空と低い位置に輝く太陽が、実に壮大な絵を作り出していた。『楽園の庭』は、いつか私の作品のタイトルとして使われるかもしれない」
こう書いた2日後にはもう作曲を開始している。ヨークにあるステーションホテルは1878年に完成した歴史あるホテルで、今はまた違った形になっているようだ。特に庭園についてはあまり写真がなく、1930年頃のポスターでその様子が少しうかがえる。サイエンス・ミュージアムのページにあったポスターの画像、奥にはヨーク・ミンスターと思しき建物も見える。

ベインズ本人の言葉通りだと、ターナーよりもう少しヴィヴィッドな雰囲気の絵が似合うのかもしれない。この記述に合うような絵画は何かなかったかなと、ちょっと考えて探してみたけど、ぴったり合うようなものは見当たらなかった。妥協して、というのもなんだけども、モネの『ヴェトゥイユの画家の庭』を貼っておこう。青い空と花の庭。今は夏だからね、ひまわりなのも良いでしょう。2011年に国立新美術館で行われた「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」で見た作品でもある。

ベインズが音楽に描いた「楽園の庭」の大部分は、今は駐車場になってしまったそうだ。もう残っていない景色。残念なことだ。まあ、無理にターナーやモネの絵なんか出さなくたって、今の時代であればAIに頼めばベインズの言葉に従った「楽園の庭」の景色の画像を出力してくれるだろう。それこそ、ターナー風だったり、モネ風だったり、そんなこともできる時代だ。でも、絶対にそんなことしたくない。古典の、いや、芸術の愛好家としてはね。
もちろん新技術は結構なことだけど、僕はまだまだ、古い時代に潜って探索していく方が好きだなあ。確実に、人の作ったものに触れられるし。19歳のベインズが残したこの音楽は、音楽家としてこれから羽ばたいていく兆が見え始めた頃であり、また兵役の恐怖が彼の気分に暗い影を落とした頃のものでもある。そんな「楽園の庭」に触れられるのだ。どれほど大きな意味か、おわかりでしょう。
Author: funapee(Twitter)都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more








