シューマン 謝肉祭:出逢った頃のように

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シューマン 謝肉祭 作品9


はじめに断っておくが、これから書くものは楽曲解説がメインではなく、エッセイ的なものである。インターネット上で無料で日本語で読める解説をお求めの方はぜひ、Wikipediaが曲ごとにコメントもあり、かつコンパクトにまとまっていて便利ですので、こちらからどうぞ。


僕は青春時代に幻想小曲集の「飛翔」を弾いてからずっと、シューマンが好きだ。クラシック音楽ファンとして長年(というほどでもないが)生きてきて、気づいたことがある。それは、シューマンのことが好きな人は、多分僕のことを好きではないだろうし、おそらくシューマンもきっと僕のことは好きになってくれないだろうと、そんな気がしている。
もちろん偏見である。ただ、僕は結構、俗っぽいというか、世の中の俗っぽいものも好きで、おそらくシューマンが音楽批評で用いたところの「ペリシテ人」的なところも大いにあると思うし、好かれない要素は強いんだろうなと自覚している。なにぶん普段の言動や発言が基本ポジティブで多幸感出しまくりな上に、大雑把で細かいことを気にしない楽天家の適当人間なので、何の悩みのなさそうな人に思われがちなのだ。私見だが、心の底からシューマンが好きな人に共通するのは、芸術至上とまでは言わなくても俗物は丁寧に避けるセンスの良さがあるし、とても繊細でセンシティブで、人間の苦悩に敏感で、そしてそれらに対する思いやりや慈愛がある。いや、あくまで偏見だけどね。
僕は単に、言動に一切出さないだけで、悩みが全くない訳ではないのだが、シューマンのように常に苦悩に満ちている音楽を繊細な感情で共感するというのは、どうも僕自身も、今の自分と縁遠いことのように思える。常に苦悩に満ちているはさすがに言い過ぎかもしれないが、少なくとも精神に異常をきたすほどの人物が生み出した音楽は、楽天家の音楽とは言えまい。
今は他人から楽天家に見えるように振る舞うことが多い僕も、少年時代や青年時代には、それはそれは壮絶な苦難(※個人の感想です)があったわけで。また同時に、世の中のシューマンおたくたちがどうだったかは知らないけども、今となってはどれも僕の心の中で薔薇色や瑠璃色の宝石のようにきらめいている恋愛経験を経て大人になったわけで。ある意味、そうした現実のラブロマンス的な事象と決別しても悔いが残らないと確信を持ったので結婚し、今は育児をしているのである。そこが僕とシューマンとで違うところだよな、なんて言うとあれだが、僕だってシューマンが悩みに悩み抜いて愛の上に愛を重ねて愛を込めに込めて書いた音楽に共感することもできるんだぞと、ちょっとアピールしておきたいのだ。

なんでこんなことを書いてるかというと、先日「ショパンを弾くには失恋の経験が必要」みたいな言説をまたもTwitterで見かけたから、というのもある。失恋して上手くなる人もいればならない人もいるだろうから説としては間違いだと思うが、それはそれとして、様々な経験が良くも悪くも人生に大いに影響を与えるのは確かであり、自分の恋愛経験と音楽を重ねるのは楽しいし、人生をさらに豊かにすると思っている。ショパンの話は今回は関係ないが、では「シューマンを理解するのには挫折や失恋、結婚、あるいは精神分裂が必要か」と問うてみる。そんなわけないだろう。こんな問いに意味があるのかどうかは知らない。では、こう言い換えたらどうだろう。「楽天家にシューマンは理解できない」と。自分に矛盾したくないから、いやいやそんなことはないと言いたい自分もいれば、僕は恋愛や苦悩を経験しているからこそシューマンに寄り添えるんだとアピールしたい自分もいる。まいったな、分裂してしまった。
この答えの出ない問いは一旦置いとくとして、なぜこんなことを書いたかを正直に言うと、多分、今週「劇場版からかい上手の高木さん」を見に行ったからじゃないかと思う。このアニメ(漫画もある)、自分の青春時代を思い出して、あまりにも胸が苦しくなる内容なのである。クラシック音楽の話をしながらこういうアニメだとか何だとか言うからなおさら、シューマンの真摯なファンからは白い目で見られそうだけど、シューマンも現代に生きていたらきっと高木さんの映画見に行ってたと思うよ?シューマンはアニメなんか見ないって?本当に?「女の愛と生涯」を聴いてもそう思う?あっ、こういうこと言うからなおさら(以下略)。

シューマン:歌曲集「女の愛と生涯」他
シューマン (アーティスト), シビラ・ルーベン (演奏), ウタ・ヒールシャー (演奏)

シューマンの謝肉祭を初めて聴いたのは中学生だったか高校生だったか覚えていない。聴いてすぐに好きになった。この曲もまたシューマンの恋愛が絡んだ作品で、僕も青春真っ盛りだったわけだけども、当時はシューマンの恋愛事情だとか、自分の恋愛と照らし合わせたりだとか、そんなことは微塵も考えずに聴いて惹かれたのだった。
1834年、シューマンが24才の時に作曲し、1835年に完成。1833年に兄夫婦が亡くなったことがきっかけで、シューマンは精神疾患の症状と言える心身の不調が現れた。その時のシューマンを支えた一人が、当時恋仲であったエルネスティーネである。彼女の出身地アッシュにちなみ、ドイツ語のASCHを音名で表記した2つのパターン、“As – C – H”(ラ♭ – ド – シ)と“A – Es – C – H”(ラ – ミ♭ – ド – シ)が曲全体に使用されている。
シューマンはよくクララの名前もそうやって使うし、恋人ではないけど名前の文字列を用いた音楽としてアベッグ変奏曲というものもある。ところで諸君、RPGゲームのキャラクターの名前に自分の名前と好きな人の名前を付けて楽しんだことはあるか。好きな人の名前やイニシャルを文章でも何でも何かに使ってニヤニヤドキドキしたことはあるか。あったら、もう、君はシューマン的発想に近づいており、謝肉祭を楽しむ準備ができていると言えよう。
シューマンは、クララに宛てた1838年の手紙で、1833年当時の兄夫婦が亡くなった際に大きな不安を抱えて心身に不調をきしたこと、それを医者に相談したら薬ではどうにもならないからご婦人を見つけなさいと言われたこと、そのときクララはまだ15歳で自分との関わりも少なかったこと、自分を愛しているエルネスティーネに頼りたかったこと、彼女が自分を救ってくれると思ったこと、などを書いている。結局エルネスティーネとは彼女の出自の件で破談になってしまう。後にエルネスティーネが別の男性と結婚したことを知り、シューマンは安堵したそうだ。

大きな不安による精神の病と、それを克服する恋人の存在。それに加えて、シューマン作品はよく彼の精神分裂と関連させて語られるが、謝肉祭も例外ではない。謝肉祭はシューマンの初期作品であり、あまりそうした側面とは無関係と見られることもあるが、シューマンが多く執筆した音楽批評誌「新音楽時報」が創刊したのは1834年、そこでシューマンは架空の団体「ダヴィッド同盟」を作り出し、行動的な情熱家「フロレスタン」と、対称的な優しい夢想家「オイゼビウス」らを登場させて評論を書いており、そうした二面性を精神分裂の萌芽と捉える向きもある。
そのあたりの正解はわからないが、精神を病む大きな不安があったことと、エルネスティーネとの恋によっていくらか救われたことは事実である。また、ダヴィッド同盟とその登場人物が謝肉祭の音楽に登場していることも、精神の病との関連はわからないが事実ではある。
ドイツの作曲家・音楽学者のディーター・シュネーベル(1930-2018)は、謝肉祭のアナリーゼをし、この曲のリズムのもつれている箇所について次のように語っている。

「そのポリフォニー構造では実現不可能で、その箇所は演奏がまったく不可能というのではないが……精神分裂性が潜む音楽を演奏するには、二つのまったく分離したコントロール機関を必要とする――もしくは『右手には左手が何をしているか悟られてはならない! 無意識の演奏が包含しているものを知らせてはならない』」。


これは心理学者ウード・ラオホフライシュが著書『ローベルト・シューマン 引き裂かれた精神』で取り上げている引用で、シュネーベルがどこを指して言っているのか、シュネーベルの原文を見ないと確実なことは言えないが、ともあれ興味深い考察ではある。なおラオホフライシュ自身は、シュネーベルのような解釈には否定的である。以下がラオホフライシュの言葉。

「この種の解釈は、もっともらしく注目に値するようにみえるが、結局は疑わしいのである。なぜなら、精神病理や精神分析の概念が、音楽内部の実態を描写するのに使われているからである。その点で、このやり方は混乱を招きやすい。この概念は、専門的な議論において、病像をはっきりと特定する方向で要約するのが普通で、他の専門分野への転用は、それほど簡単なものではない」

ラオホフライシュは作曲家の出来事と曲の創作された日付に関連を探すのも問題であり、また精神病理的な考察で芸術的な価値判断を導くことは許されない越境だとしている。僕も勝手な解釈へ人を誘導したり、楽曲の価値を判断してやろうという意図で書いているのではないと断言しておくが、ロマン派音楽を鑑賞し楽しむ上で、自身の人生経験と重ね合わせて音楽に触れることは人間にとって価値のある行為に違いなく、そのための伝記的な事実や知識と音楽の関連を個々人が内省的に用いるのは、かえって良いことだと思っている。
作品の真意や価値はまた別だけども、シューマンは恋とそして音楽によって精神の不調から抜け出し、未来を向けるようになった。そのことは、きっと多くの音楽ファンを励ましてくれるだろうし、苦悩へ対峙する際の人間の強さは何なのかを考えさせてくれる。

ローベルト・シューマン 引き裂かれた精神 ペーパーバック – 1998/12/10
ウード ラオホフライシュ (著), Udo Rauchfleisch (原名), 井上 節子 (翻訳)


さて、各々の曲について、疾風怒濤の青春真っ只中に何も知らずに聴いたときのことを振り返りつつ、同時に、今やもう楽天的な大人になってしまった僕がある程度曲の知識を得て聴いたときの感想も織り交ぜつつ、少し注釈してみよう。
「前口上」の冒頭の輝かしさは、若く無知な僕にとってはまるで何か新しい世界への扉が開くようだった。ピアノ音楽の新しい世界。今まで聴いたことのないようなピアノを使った楽しい音楽が待っていると期待し、もうこの先を聴き続けない選択肢はない、と、ひたすらに眩しく光り輝くカーニバルの始まり。自分にとって未知のピアニスティックな、ありとあらゆる技術が詰め込まれている音楽に感じた。ここから先の全ての曲でメロディが美しく、それが何を示しているかなどまったくわからずとも、こんなに良い曲が世の中にはあるのかと感動した。
何を示しているかわからない……これは重要なことだと、大人になってからわかった。シューマンも傾倒した(蝶々op.2はより直接的である)、ジャン・パウルの言うところの「仮面舞踏会は詩が人生を解釈しうる最も完璧な媒体かもしれない」である。素性を隠して踊ること。シューマンはこのカーニバルに色々な人物を招待しているが、その人物たちが踊るための音楽が暗喩するものこそ、シューマンのプライベートな空想の世界と結びついた、複雑で、いじらしくて、美しい「ロマン派音楽の真髄」なのだと。
「ピエロ」のEs – C – B♭が何を示すかわからずともその訴えかけるような音列にドキドキしたし、あるいは「アルルカン」の意味を調べるよりも前に可愛くおどけているところが好きになったし、「高貴なワルツ」はそのモチーフのせいでどこか奇妙な雰囲気になりながら、なぜか上品な美しさを持っているという不思議なところに心惹かれた。
「オイゼビウス」と「フロレスタン」が対象的な存在だと知ったのもずっと後のことだ。オイゼビウスが7連符だと知る前に諳んじて歌えるようになっていたし、フロレスタンの後半のたたみかけるような熱いパッションには胸が苦しくなった。
そこから場面が急に変わる「コケット」、この言葉の意味を調べたのはこの曲がきっかけだったと思う。その通りの愛くるしさで、当時は色々なことを考えた。色々なことだ。言わないけどね。
「返事」の高音も好きだった、可愛らしさがあって。高音の装飾だという理由だけでときめいたとの同じように、「蝶々」も高速テンポというだけでときめいたのだ。「躍る文字」は楽譜を見るまで拍が取れなかったが、そういう意味のわからないところが好きだった。
「キアリーナ」はクララのことだ。クララとロベルトの関係、もちろん作曲当時はクララはまだ15歳かそこらだったけども、そんなことなど知らなくても、この曲の右手からは深い情愛を感じる。「ショパン」はさすがに若い僕も知っていた、ショパンも好きだったからね。でも、なぜ突然ショパンなのかもさっぱりわからなかった。お祭りだし、それでいいのかとか、そのくらいしか思っていなかった。シューマンが「諸君、脱帽したまえ、天才だ」と書いたのは1832年。彼の空想のカーニバルにお呼ばれするのは必然かもしれない。「エストレラ」はエルネスティーネのこと。昔はこの曲に悲劇的なイメージを持っていた。この人が恋人だったと知ったときの僕の驚きを想像してほしい。
今になって思うと、クララ、ショパン、エルネスティーネという並びは面白い。愛の舞曲に、ため息のインターリュード、激情のコーダ。ちょっと曲解かもしれないが、一方から愛を、他方から恋を、演奏家がどう描くか勝手に期待してしまうこともある。キアリーナからショパンへ流れるように入る演奏も好きだ。
「回り逢い」のようなトコトコ動くピアノのテクニックといい、このメロディーといい、昔から今までずっと好きである。というかもう、自分の好みの形成に大きく関わっていると思う。そういう意味では「パンタロンとコロンビーヌ」も同じかもしれない。「ワルツ・アルマンド」もまずメロディーを好きなったし、「パガニーニ」のどういうところが好きかはもう言わなくてもわかってもらえるだろう。
「告白」は愛の告白とかプロポーズをすることではない(と思う)、胸の内を吐露するというか、秘めていた感情を口に出すということである。しかしどこか可愛らしく、後ろめたさもあるように感じる。どうしてもこの曲から恋愛的な意味合いを思い浮かべようとしても無理だった昔の自分を、今は肯定してあげられる気がする。
「プロムナード」は散歩とか遊歩道という意味か、ちょっとした音楽コンサートのようなものか、わからないけれど、なぜこんなに感情があっちに行ったりこっちに行ったりするのか不思議だった。今も不思議だ。「休憩」という名の高速ブリッジを経て終曲「ペリシテ人と闘うダヴィッド同盟の行進」へ、この終曲が大好きだった。なんという大スケール、大迫力、ピアノという楽器はなんて力強く美しいのか、打ちひしがれた。蝶々op.2でも用いられている、低音で奏でられるペリシテ人のテーマが大好きだった。ああ、やっぱり僕はペリシテ人側かも、でもそれでもいいと思える。ダヴィッド同盟に倒されるなら本望だ。

誰が好きだの嫌いだの、そんなの子供っぽいかもしれない。でも、シューマンの謝肉祭は、僕にとって中高生の頃を思い出せる曲であり、ちょっとそんな、意地の悪い、からかうような話もしたくなってしまうのだ、許してほしい。僕がシューマンを愛しても、おそらくシューマン(と世のシューマン好き)に愛されることはなく、失恋に終わる可能性の方が高い。ただ僕はもう少年ではなく大人なので、恋は成就しても破れても、その経験が人生にとってどれほど貴重なものかをわかっている。だからいいのだ。それに僕のシューマンへの愛は永遠である、僕が過去を消し去らない限り。出逢った頃のように、季節が変わっても、きっと色褪せないはずだ。

Rubinstein Collection, Vol. 51: All Schumann: Carnaval, Fantasiestücke, Op. 12; Romance, Op. 29; Vogel als Prophets; Novellettes, Op. 21/1 & 2
アルトゥール・ルービンシュタイン


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