レブレヒトのウィーン・フィル「ニューイヤーコンサート」批判(後編)

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ウィーンという街は独特の雰囲気がある。伝統を守ろうとする意志、古いもの・古いスタイルを変えないようにする気持ちが強く、それに誇りを持っている。日本で言えば京都のようなものだ。僕はそうした伝統に憧れや尊敬の念を抱くし、そういった部分が鼻に付くと感じる人がいることも理解できる。「体裁よく」「見栄え良く」という言葉が似合う。それがアイデンティティだし、オリジナリティだし、だからこそ美しい街なのだろう。


19世紀後半のウィーンで流行したシュランメル音楽の代表曲、“Wien bleibt Wien”(ウィーンはいつもウィーン)というものがあるが、これは正しくウィーンという街のモットーを言い表している。歴史が流れ、暗黒の部分が洗い流されたとしても、よくよく見れば根っこは何も変わっていないとレブレヒト氏は言う。良い意味でも悪い意味でも、それがウィーンなのだ。ニューイヤーコンサートの客席にいるのは財界人の要人やセレブたち。今テレビで見ることができるこの客席の様子は、ナチス政権下だって同じだったはずだ。レブレヒト氏は、カール・ベームがよく語っていた言葉を引用している。「ナチスもそんなに悪くはない。彼らは政治から女性を排除しようとしているだけだ。」きっと今のウィーン・フィルのメンバーも同じように思っているのではないか、「男の世界」では女はすっこんでろ、という考え方が変わらずに残存しているのではないかと、氏は勘ぐっているのだ。


アジア人音楽家の冷遇や世襲主義なども挙げられるが、レブレヒト氏が最も気に入らないのは、ウィーン・フィルの女性差別問題である。ニューイヤーコンサートの放送を見ても、女性楽団員はほんの数人しかいない。130名近くの団員がいて、女性は7名。ウィーン・フィルは平等なオーディションで決めていると主張しているが、世界中のどのオーケストラと比べても少ない。ヨーロッパでも、もちろんオーストリアでも女性差別は禁止されている。にもかかわらず、だ。レブレヒト氏が1月1日に年始早々更新したブログ記事には、「今日のウィーン・フィルに女性が何人いると思う?」という内容で、ニューイヤーコンサートのステージにはたった5人しかいない、これがこのオケのDNDに書き込まれた差別主義だ、と痛烈に批判(元記事→How few women in today’s Vienna Phil?)。これに同意するアンチ・ウィーン・フィルの人たちを中心に、対立意見なども含めて、コメント欄が大いに盛り上がった。来年のニューイヤーコンサートの指揮者がマリス・ヤンソンスだと発表されたことについても、1月2日に記事を更新(元記事→Why don’t conductors do something?)。レブレヒト氏はヤンソンスにも、今までの指揮者に要求したのと同じように、少なくとも10人の女性がコンサートに出るように要求するつもりだと語っている。今までも指揮者にそういう話をしたことがあるが、皆お茶を濁すばかりだったとのことだ。音楽的に影響力を持つことのできる指揮者でさえ、ニューイヤーコンサートについては皆「伝統」の前に単なるタイムキーパーとマスコットに成り下がるのだという。


こうしたニューイヤーコンサートについての記事が思いのほか大きな話題となり、レブレヒトのブログ編集部が更新した記事が“Slipped Disc editorial: Discrimination is wrong, right?”(差別は悪か正義か)というかなり挑発的な題の記事である。そんなもの悪に決っているだろうが、「文化」というものを考えたとき、どこまでそれを断罪し、どこまでそれを是認するべきかは、意見の分かれるところだろう。いかに音楽が良くても、その音色が甘美でも、悪は悪だ、差別主義者はこのブログを読む必要なし、と強気のレブレヒト氏。ニューイヤーコンサートの甘い誘惑に惑わされていたら、ウィーン・フィルの差別体質は変わらないのだと、レブレヒト氏は手厳しい意見を世に放った。


ウィーンから追放されたマーラーは「伝統とは怠惰だ」と語った。独特の音色が受け継がれるウィーン・フィルは、一種の伝統芸能と言っていい。日本の伝統芸能、例えば歌舞伎や相撲だって、ほとんど男の世界である。僕は歌舞伎に詳しい訳ではないが、出雲の阿国は女性だし、今でも女性歌舞伎の復活をと声を上げている人たちもいるようだ。国技と言われている相撲も、スポーツとしては女子の相撲もあるようで、時々テレビで特集をしているのを見かけることがあるが、神聖な土俵に女子が上がることなど許せないという意見を言う人もいる。このあたりの線引は難しいところだろう。古い建築を残す街、「古き良きもの」を残すヨーロッパの文化の中で、古典芸能が保守寄りになるのは至極当然な気もするし、かといってあらゆる差別が許される時代ではもうとっくになくなっているのだ。レブレヒト氏のようなある意味でお騒がせな、影響力のある人物が、どちらかに偏った意見を堂々と語るのは、文化にとってもヒューマニティにとっても大きな事件である。


レブレヒト氏は、「シュトラウス・ファミリーの音楽における甘ったるく絹のようななめらかさ、そして皮肉なことにマーラーの音楽の超然たる様はウィーン・フィルの他に表すことはできない」と語っている。このオーケストラが今のスタイルを変えれば、得られるものもあるだろうが、失うものの大きさも計り知れない。


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