2020年、今年はベートーヴェン生誕250周年ということで、誕生日(とされている)12月16日は各所は大賑わい……になるはずだったのに、そういう訳にもいかず、リアルでお祝いイベントがないから皆ネット上でわいわい楽しんでいた。僕もそれに乗っかり、何かベートーヴェンの話を書いておこうと思った。なにせ次このクラスのアニバーサリーは生誕300年である。僕ももう死んでるかもしれないが、僕は2112年ドラえもん誕生を見届けてから死ぬ予定なので祝えるかも。それはともかく、せっかく12月だし、第九の話をしよう。
実は昨日(16日)、ベートーヴェン誕生日だしツイッターでは何の話をしようかなと思い、RAIで放送された某ピアニストの某ライブについて書こうと思っていたのだが、なんとまるっと全部YouTubeにあり、しかもちょいちょいツイートもされていたのでやめた。だからこの第九の話題はあまり準備もなく書いた(というかツイートした)ものである、ので内容の薄さ等々は、悪しからず。まあ、そのやめた方のピアノの話題も別に準備してたわけではないけど。そちらはまたの機会に書こう。
せっかくなら、僕が好きだと公言しているイタリアとロシアの両方が絡んだ第九の話を。多分、この話題が日本語で書かれるのは本邦初なのではないだろうか。RAIで放送された、ウラディミール・デルマン指揮ミラノRAI響、1993年12月16日、27年前のベートーヴェンお誕生日公演である。なぜこの話題が日本語で書かれていないかというと、そもそもデルマンという指揮者に興味を持つ人が極わずかであること、これがRAIで放送されただけで違○でYouTubeに上がってもいないこと、などが考えられる。本当に、なんでも違○でYouTubeに上がっているもんだから、まいっちゃうね。
ウラディミール・デルマン(1923-1994)という指揮者をご存知だろうか。ご存知の方はおそらく、第九は第九でもベートーヴェンではなく、ブルックナーの交響曲第9番を聴いたことがあると思う。CDも買えるし、今や配信にもある(下のリンク参照)。「グレート・コンダクターズ」という10CDのDisc7、エミリア・ロマーニャ響の1994年録音。ブルックナーヲタク、通称ブルヲタであれば必携のゲテモノ盤である。なにしろ唸り声がうるさい。しかしそれを心の中で無視しながら聴くと、なかなか素晴らしい演奏だと思う。
1974年にソ連を去りイタリアに定住。1993年にはミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ響を設立した。また、ミラノRAI響としては最後の首席指揮者でもある。彼はソ連時代に、一応当局の信頼もあり、旅行としてイタリアを訪れたことがあり、その時にいつかイタリアに住んでみたいとは思っていたようだ。また海外ツアーで好評を博し「もと振ってくれ」と海外からオファーがあっても当局の意向で取り消されたり、ゴスコンツェルト(ソ連の官立音楽代理店のようなもの)と折り合いがつかないことも多かったりしたそうだ。詳細は不明だが、デルマンを亡命させようとしている(良かれと思ってなのかどうかも不明だが)役人の策によって、亡命させられたという形になったと捉えたら良いのだろうか、騙されたような形でソ連には帰れずパスポートも没収されてしまったデルマンに、たまたまイタリア音楽界の有力者が声をかけ、イタリアに向かうことになったそうである。イタリアではボローニャ市立劇場やエミリア・ロマーニャ響で活躍し、1988年からはミラノRAI響(別名、ミラノ・イタリア放送交響楽団)の首席指揮者を務めた。
さて、当該のベートーヴェンの第九の話をしよう。1993年、デルマン指揮ミラノRAI響による12月の第九公演のチケットが販売されるという頃に、「RAIの合唱団は12月には解散している」という噂が囁かれるようになっていた。合唱団がいなければ第九はできない。ポスターには第九でなくてチャイコフスキーの「悲愴」に変更との張り紙もされるようになった。この頃、1993~94年は、RAI(イタリア放送協会)の政治癒着問題で捜査が入ったり、重役が逮捕されたり、RAI暫定改革法の成立などがあったりと、RAIの解体・再構築が実行された時期。
これは、1992年から始まったイタリア国政における大規模な汚職捜査と政界再編、いわゆる「タンジェントポリ」が大きく影響している。RAIも当時の支配政党との癒着が報じられ、腐敗した放送体制の見直しということで改革が行われる。余談だがこのドタバタ劇中に一気に躍進したのが、イタリアの「メディア王」「テレビ王」であるベルルスコーニである。彼はフォルツァ・イタリアを結成し政界進出、94年5月には首相になる(この辺の事情については大谷堅志郎の「イタリアの放送界変転の20年~政党政治に汚染された寡占体制~」という『NHK放送文化研究所 年報1994 第39集』に掲載されている研究報告が日本語で読める当時のリアルタイムの詳しい資料である)。ということで、92年頃には既に、RAI系列の合唱団は随時解散、オーケストラもトリノだけ残り後は解散というのが公然の秘密になっており、93年の冬はRAIの合唱団にとっても「ついに時が来た」という感じだったのだろう。
そもそも、デルマンがミラノRAI響の首席に就任した88~89年には、もう既にオーケストラには「いつか解散するのだろう」という暗雲が立ち込めており、オケも存続を意識した俗物根性というか、とにかく「一般受け」や「金儲け」が優先というムードだったそうだ。日本の某(半)市立オケや某元市立吹奏楽団を彷彿とさせる話題だが、やはり公営というのは良い面も悪い面もあるものだから仕方ない。しかし、そんな中でも、デルマンは真の音楽の追求とオーケストラの技術向上に務めた人物。と言っても、詳しくは僕も知らないのだけど、この第九を聴けばなんとなくわかる。この人は、ただの唸るゲテモノ指揮者ではない。
93年12月の第九公演の実現が可能かどうかという頃、合唱団は翌年から旧ソ連系を招聘して公演を行うと発表される。ベルリンの壁が崩壊し、様々な点で自由になったとは旧ソ連系の諸国は、自由とはいえ皆価値のない通貨を持ち西欧諸国と比べると本当に貧しい生活水準だった。だから音楽家たちも生活のために公演を求めており、それがミラノでの第九の実現に一役買うことになる。改革真っ最中で経済的にも厳しかったRAIは、10代の子がアルバイトでも断るような低いギャラでスロヴァキア・フィルハーモニー合唱団を呼ぶと、合唱団は大喜びでオファーを受けた。交通費も何もかも自腹のため、合唱団のメンバーはホテルにも泊まらず、真冬にミラノ中央駅の冷たい大理石の床で寝て一番安い列車で帰ったそうだ。
そうして、エヴァ・ジョンソン(S)、エフゲニア・ドゥデンコヴァ(A)、ミヒャエル・パプスト(T)、トーマス・トマスク(B)とスロヴァキア・フィルハーモニー合唱団と共に、1993年12月16日、ウラディミール・デルマン指揮ミラノRAI響の第九公演は実現。
これがRAIで放送された。おそらく商品化することはないだろう。というのは、演奏があまりにボロボロだから。解散直前のオーケストラはエキストラも多く、縦もズレズレだし、特に3楽章では管楽器が飛び出したり迷子になったりと、他のデルマンの録音と比べても、ぶっちぎりに下手である。それでも、弦楽器の歌い方などは聴き応えあるし、4楽章の8分の6からの一貫した遅めのテンポは、妙に説得力がある。気持ちとして言えば「このメンバーが音楽する喜びを、長く、ゆっくり、丁寧に味わっているし、またこちらにも味わわせてくれる」というように聴こえる。こういう想像の評は最近は流行らないんですかね?だとすれば、こう言えば良いかな――Allegro assaiの歓喜の主題から、Alla marcia Allegro assai vivaceに入るときのテンポについて、ベーレンライター版でもブライトコプフ新版でも1小節86が正解として、例えばガーディナーやジンマンのような快速テンポが原典に忠実、ノリントンも昔は遅くしてたけどやはりそれは間違いとして21世紀には快速で演奏している。しかし付点四分84という解釈は本当に間違いなのか、確かに行進曲を遅くしてフーガで急に格好つけたようにテンポを上げるのでは筋が通らないしどこにもテンポ変化の指示はない、しかしAndante maestosoまで一貫して遅いテンポであれば、それも一つの正解なのでは――って感じ?しらんけど。こういうのは専門家にやらせておけばいい。しかしこの、ひどく劇的でもなければ、ベートーヴェンの対位法の凄さを強く意識することもないような演奏から、歓喜の主題と抱擁の主題は、こんなにも「ひとまとまり」な音楽だったかと思わせるような、そんな印象を与えるのは、こういう解釈ならではだと思う。例えばスコアをクリアに見せる演奏、音の分離、響きの解体、そこには真実の発見があるかもしれない。だがそうではないのだ、この解散しかけのオーケストラを振るというのは、そうではないだろう……。クライマックスも決して猛烈な熱狂的テンポで突っ走ることはなく、しかし密度を確かめるように進む。筋の通った、ひとつ解釈を貫いているようにも思う。
デルマンのベートーヴェン録音としては1978年のトリノRAI響との5番がある。これも結構なデフォルメに思われるけど、デルマン晩年のこの第九を聴くと、やはり5番も単にデフォルメだとか奇演怪演の類とするのもおかしいように感じる。ブルックナーでもそうだが、ベートーヴェンの第九でもやはりよく「唸る」し、その特徴に大胆な解釈が加わって、どうもデルマンという指揮者はネタというかゲテモノ扱いされているような気もしないでもない。まあ実際はそんな扱いどうのこうのというほど話題になってすらいないのだが。しかし、本当に真摯に音楽に向き合った解釈なんだろうなと思う。この第九は。
ソ連を去ったこと、ユダヤ系であること、これらが当時の楽壇で不利だったのは容易に想像できる。実際、イタリアで公演をする際、ソ連出身の歌手が出演することを公演前に当局に知られてしまい、歌手は強制帰国させられてしまった、ということもあったそうだ。1994年、政治的な混乱は全く解決しないままにRAIのオーケストラは再編され、フランク・シップウェイを初代首席指揮者とするRAI国立響(イタリア国立放送交響楽団)に統合された。デルマン行き場をなくした奏者や若い奏者を集めてミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ響を創設。しかし創設直後の1994年8月にデルマンは亡くなってしまう。このオーケストラはシャイーが引き継いだ。
社会情勢や政治問題に巻き込まれたイタリアのオーケストラにとって、あるいは旧ソ連の音楽家にとって、非常に苦しい時期になんとか実現した第九。そこまでしてやりたいものなのだろうか。結果下手くそな演奏でも?そんな演奏でも聴きたいのだろうか。だとしたらなぜ?なぜ第九にこだわるのか。解散しかけの急ごしらえメンバーで、下手くそな演奏で、それでも第九を演奏したい、聴きたいのは、何のため、誰のため……非常に労力がかかる曲であり、また同時に、人々に何かしらの力を与えることができる曲なのは、どうしてなんだろう。例えば他の交響曲ならばもっと上手く演奏できたかもしれないし、それはそれでまた、別の感動がある演奏になっていただろう。
ベートーヴェンの第九は、曲の好き嫌い、あるいは交響曲としての出来不出来の批評はさておき、何か人々を捉えて離さない不思議な曲である。その結果、現代、というか昨年までだが、世界はもちろん、日本中のあらゆる都市であらゆる人達が奏でる音楽となった。そんな第九が、今年はまた演奏の実現に多大なる労力が必要な曲になってしまったのだ。それが良いか悪いかは僕には判断はできない。だがそんな状況で迎えたベートーヴェンの生誕250周年に、演奏史として語られる機会がほとんどない、このデルマンとミラノRAI響の第九の話を書き記しておこうと思ったのだ。
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more