クラシック音楽界隈はいつも批評のあり方で揉めているイメージがあるが、基本的には何かの芸術表現があれば、それに対して様々な反応があるのが常であり、古来からその繰り返しを積み重ねてきて現在に至る。批評のあり方そのものについては今は置いておいて、ストラヴィンスキーが発言した「ヴィヴァルディは過大評価されている」という言葉について、少し詳しくまとめておこうと思う。
先日このストラヴィンスキーの発言をTwitterで取り上げた方々は「有名な作曲家も過去の有名な作曲家を悪く言っている」ことの例として挙げたのだろう。なるほど、過去の巨匠に屈しない、権威主義に対抗するカッコいい姿勢である。しかしまあ「現代で活躍する作曲家先生が、ストラヴィンスキーがヴィヴァルディを批判していると教えてくださった! やっぱりそうなんだ! 僕も私も、ヴィヴァルディつまらないと思っていました!」などと言うのは、偉い先生の言うことなら無批判に盲目的に従うという、権威主義そのもので本末転倒である。もちろん誰がいつヴィヴァルディを批判しても大いに結構だが、せっかくならストラヴィンスキーはどんな意図でこの発言をしたか、もう少し調べてみるのもいいだろう。
と言いつつ、別に僕もわざわざ調べたのではないのだけどね……僕はストラヴィンスキーが好きで、先日もバイロイトでビールを飲む話をTwitterでしたけれども、それは自伝からの引用である。最近、ちょっと別件でストラヴィンスキーについて調べていて、弟子のロバート・クラフトが編纂した対話集“Conversations with Igor Stravinsky”(1959)を読んでいたら、たまたまTwitterでも話題になった「ヴィヴァルディは過大評価されている」という部分にあたり、おお、ソースはこれだったのか、と。この機会に少しまとめてブログに書こうと思った次第。このクラフトの著書は一応邦訳があり、吉田秀和訳『118の質問に答える』(1960)という題で音楽之友社から出ているようだが、それなりに古いのでレア本のようである。もし持っている人がいたら、多分同じ内容だと思うけど、あの、僕の訳を天下の吉田翁と比較しないでください! あ、でも間違いがあれば直すので指摘してくださいね。
ロバート・クラフト:今の18世紀イタリアの巨匠たちの復興運動に興味をお持ちですか?
イーゴリ・ストラヴィンスキー:そうでもない。 ヴィヴァルディは非常に過大評価されている。同じ形式を何度も繰り返し作曲できる退屈な男だ。そして、私はガルッピとマルチェッロ(彼らの音楽というよりも、ヴァーノン・リーの「18世紀のイタリア研究」によって作られた音楽)を好む傾向を抱いているにもかかわらず、彼らは貧弱な作曲家である。 チマローザに関しては、私はいつも彼が4拍子4小節を放棄してモーツァルトに変身することを期待しているし、そうならなかったときは必要以上に憤慨する、もしモーツァルトがこの世に存在しなかったなら。カルダーラは大いに尊敬している、モーツァルトが彼のカノンを7つも模倣したのだから。彼の音楽はほとんど知らないが。ペルゴレージ? プルチネルラが唯一好きな「彼の」作品だ。スカルラッティは別格だが、彼でさえ形式をほとんど変えていない。ここ2年ヴェネツィアに住んでいたから、これらの音楽には大量に触れてきた。ゴルドーニの記念年は多くのゴルドーニ・リブレット・オペラを演奏する機会だった。音楽の有無にかかわらず、ゴルドーニを十分に理解できないことを私はいつも残念に思っている。しかしゴルドーニは音楽家以上に私を魅了する。それでも、フェニーチェ劇場やサン・ジョルジョのキオストロ・ヴェルデでは、他の場所よりも全てが少し好きになる。
私が復活させたい「ヴェネチアの」音楽は、モンテヴェルディやガブリエリ、チプリアーノやヴィラールトなど他の多くの――なぜ偉大なオブレヒトですら「ヴェネツィア」だったのか――より豊かで、より私たちに近い時代の音楽だ。確かに、私は昨年ヴェネツィアでジョヴァンニ・ガブリエリとジョヴァンニ・クローチェのコンサートを聴いたが、彼らの音楽感覚は全くと言っていいほど残っていなかった。テンポは違うし、装飾音は存在しないか、あっても間違い、様式も情緒も3世紀半飛び越えているし、オーケストラは18世紀。ガブリエリ音楽の演奏ポイントは和声ではなくリズムであると、音楽家たちはいつになったら学ぶのだろうか。単純な和声の変化から大コーラス的な効果を生み出そうとするのをやめて、あの素晴らしいリズムの発明を引き出し、アーティキュレーションするのはいつになるのだろうか。ガブリエリはリズミック・ポリフォニーなのだ。
以上。ヴィヴァルディにせよスカルラッティにせよ、ストラヴィンスキーは同じ形式、型通りのマンネリズムを嫌っている。18世紀イタリア・バロックの作曲家は軒並みその形式からはみ出すことはないので、良く言えば様式美であるし、悪く言えば紋切り型。ストラヴィンスキーの言葉として有名な「ヴィヴァルディは500曲の協奏曲を書いたのではない。同じ協奏曲を500回書いたのだ」はソースが不明だが(知っている人がいたら教えてください)、上で「同じ形式を何度も繰り返し作曲できる退屈な男」と述べている通り、音楽の形式に変化があるのかどうかがストラヴィンスキーの中では大きなポイントなのだろう。それはそれとして、同じ形式、型通りであっても、その中でスカルラッティは別格だと評価している点や、モーツァルト的な逸脱に至れば(現代人から見ればモーツァルトも十分形式的ではあるけど)それは尊敬に値するようになるとしたチマローザの例なども、ストラヴィンスキーが単に固定された形式だけでその音楽を排するような器の小さな人間でない点を物語っている。そういうところはとても好感が持てる。
そんな判断基準があるので、ストラヴィンスキーは「ヴェネツィア楽派」と呼ばれる作曲家、16世紀から17世紀の作曲家の名を挙げ、復興させたいと語る。18世紀よりももっと古い音楽家の名を挙げながら私達に近い時代としているあたりも、大変ストラヴィンスキーらしい。より型に嵌っていない時代こそが、ストラヴィンスキーの生きる時代に近い時代なのだ。なお、チプリアーノやオブレヒトは今はヴェネツィア楽派ではなくフランドル楽派と言われるだろうし、ヴィラールトはその架け橋でもあり、モンテヴェルディの時代を経てイタリア・バロックの時代になる訳だが、ストラヴィンスキーが話している当時は、ヴェネツィア楽派の作曲家やヴィヴァルディの時代も含めて「ヴェネツィアの音楽家」というくくりが主だったのかもしれない。しかしさすがはヴェネツィアに住んでいただけあって、ストラヴィンスキーはこの辺りの音楽事情に大変詳しい。興味関心も高く、自身の中に明確な基準があって、あれは良い、あれは悪いと判断している。素晴らしいことだ。知らないし興味もないくせに酷評するのと、よく知った上で酷評するのでは大違いである。
ちなみにクラフトの対話集の中の、ストラヴィンスキーが他の音楽家について語っている部分では、18世紀イタリアの作曲家の他にも面白いものが沢山ある。師であるリムスキー=コルサコフの話、リムスキー=コルサコフが他の作曲家についてどう語ったか、チャイコフスキーやムソルグスキーについて、ドビュッシーやラヴェルとストラヴィンスキーの往復書簡、他にもブラームス、バルトーク、ヴェルディ、リヒャルト・シュトラウス、マーラー、新ウィーン楽派3名など、様々に言及している。個人的にはリヒャルト・シュトラウスのオペラを酷評しているのが面白かった。「私はすべてのシュトラウスのオペラを、勝利に酔いしれた陳腐さを罰する煉獄のような存在として認めたい。それらの音楽性は安っぽく貧弱だ」だって。笑ってしまうわ。リヒャルトは指揮は上手いのにオケの団員たちへの態度が最悪なので団員たちから心底嫌われていたけど、リハのときはめっちゃ耳が良くて音楽性も高いから修正の指示がどれも正論で難攻不落だった、とか。超おもしろい。興味のある方はぜひ読んでみてください。音楽に対する批評は当然、一言では真意が伝わらないものが多いでしょう。僕もよく発言を切り取るけど、良くも悪くも切り取る方の意図が入るのは避けられないということを、書き手としても読み手としても常に気にかけないといけないな、と。そして酷評も絶賛も、やっぱり発言者の信頼と説得力が大事なんだよなあと思う次第。ストラヴィンスキーが言うとなんか信頼しちゃうし、説得力あるもんね。
【参考】
Craft, R., Conversations with Igor Stravinsky, Garden City, N.Y., Doubleday, 1959.
Conversations with Igor Stravinsky
英語版 Robert Craft (著)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more