はじめに
なんだか怪しいタイトルを付けてしまったが、実際その通りなのでご容赦願いたい。大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)が南米ベネズエラで指揮をしたときの話。しかし、この記事の主役はあくまでベネズエラ側であって、フルトヴェングラーではない、と初めに断っておこう。フルトヴェングラーはクラシック音楽ファンの間では超人気指揮者なので、ベネズエラ公演についてご存知のファンも多いことだろうが、当然人々の関心は「フルトヴェングラー」であって「ベネズエラ公演」ではない。だからこそ僕は、フルトヴェングラーのおかげで知ることができたベネズエラの話を、ここに書き記したい。それは音楽ファンが大指揮者の名前にのみ反応してしまい看過してしまうには惜しいエピソードだと思ったのだ。
フルトヴェングラーのベネズエラ公演録音
まずはフルトヴェングラーの録音を挙げておこう。1954年3月21日、ベネズエラはカラカスの野外劇場、ベロモンテ・アコースティック・シェル(Concha acústica de Bello Monte)の落成記念コンサート。フルトヴェングラーはベネズエラ交響楽団に客演し、R.シュトラウスのドン・ファン、ヘンデルの合奏協奏曲op.6-10、ブラームスの交響曲第1番を指揮した。その録音が↓のCDに収録。各種サブスク配信もある。
「フルトヴェングラー資料室」というサイトにも記述があるし、ベネズエラ交響楽団のホームページにも当時の様子が載っており(同資料室さんのページにベネズエラ響ページへのリンクがあるが、別ページに飛んでしまう)、僕は主にベネズエラ響のページを参考に書いている。当該ページのリンクはこちら。フルトヴェングラーは数日間滞在したそうで、↑の録音は3月21日だが、ガラ公演の初日は3月19日。初日のプログラムの前半はベネズエラの作曲家の音楽をベネズエラの指揮者が振り、後半はフルトヴェングラーが振っている。ただしR.シュトラウスとヘンデルは21日と同じだけど、19日の方はブラームスの1番ではなくタンホイザー序曲になっている。タンホイザー序曲に関しても、19日の録音なのか別の日なのかは不明だが、↓のCDになぜかベネズエラ響とのタンホイザー序曲の録音が入っている。
本題:ヒメネス将軍とマエストロ・ソホ
カラカスのベロモンテ・アコースティック・シェルは、1954年3月19日に杮落としをして以来、ベネズエラ交響楽団の本拠地として(後にテレサ・カレーニョ劇場のリオス・レイナ・ホールへ本拠地を移した)、今はバルタ市立交響楽団の本拠地として、また多くの音楽・文化の中心地としてその役割を果たす野外劇場である。収容人数8000人、様々な用途に用いられており、スキャットマン・ジョン、ブレイズ・ベイリー、チャック・ノリスなども公演したことがある。ベロモンテ・アコースティック・シェルは、植民地時代のベネズエラの最も名高い作曲家の名を借りた「ホセ・アンヘル・ラマス円形劇場」という名前でも知られていた。ホセ・アンヘル・ラマス(1775-1814)はベネズエラで活躍した古典派の作曲家。ベートーヴェンと同時代人だ。
このホールが建設された背景には、当時の為政者であるペレス・ヒメネス(1914-2001)が関わっている。ベネズエラの軍人であり、独裁政権を率いたヒメネス将軍。この人物がまた、随分とぶっ飛んだ人物だったようで、少し解説しておこう。
20世紀初頭のベネズエラは独裁政治が続いており、ゴメス将軍とそれに続くコントレーラス将軍による軍事独裁政権が長期化していたのだが、そこで反政府組織の「民主行動党」を結成したのがベタンクールという政治家で、ベタンクールは「ベネズエラ民主化の父」とも呼ばれる。ヒメネスはというと、その民主行動党のクーデターに参加し、ベタンクールから陸軍参謀総長を任される。1945年10年、民主行動党のクーデターが成功するとベタンクールが臨時大統領に就任するが、改革をめぐり軍部と衝突が起こり、1948年にはヒメネスが再びクーデターを起こす。1952年には選挙の結果を無視して自身が勝手に大統領に就任し、ヒメネス将軍独裁時代が始まる。彼は新しい国家の理想を掲げ、強いベネズエラを作るべく、外資の石油会社に開発権を与え大規模な経済開発を行ったり、とにかく大規模なインフラ整備をしまくったり、移民をガンガン受け入れたり、また反対派は秘密警察を用いて厳しく取り締まり、政治犯にはあらゆる拷問を加えるなどして、1958年にベタンクールが大統領に選出されるまで、己のやりたい放題に近代化を推し進めたのである。ベロモンテ・アコースティック・シェルも当然、その公共事業の一つで、なんとわずか45日で建設されたそうだ。
1954年3月19日の落成記念公演になぜフルトヴェングラーが呼ばれたのか、はっきりした理由はわからないものの、極右のヒメネス将軍の独裁政権下であるということも関わっていたのではないだろうか。ベネズエラ響のページによれば、当時フルトヴェングラーがカラカスに来たということは、ベネズエラでは広く認知されていると書かれている。フルトヴェングラーは1954年11月に亡くなるが、最晩年にあって巨匠指揮者としての名声は世界中に轟いていたはずだ。
フルトヴェングラーの演目については先述の通り。彼は演奏会の後半に登場するわけだが、前半のプログラムも見てみよう。ホセ・アンヘル・ラマス作曲の“O María”に始まり、ホセ・アントニオ・カロ・デ・ボエシ(José Antonio Caro de Boesi, 1756 or 1758-1814)の“Parce Mihi Domine”を挟み、最後に再びラマスの“Benedicta et Venerabilis”、見知らぬ曲ばかりだが、18世紀ベネズエラの作曲家による宗教合唱曲が取り上げられていたようだ。指揮をしたのはベネズエラ響の創設者であるビセンテ・エミリオ・ソホ(1887-1974)、フルトヴェングラーより1つ年下の、ベネズエラの巨匠指揮者である。演奏はソホが創設したオルフェオン・ラマスという合唱団とオケ、そこにベネズエラ響も加わった合同演奏。ソホはカラカスで音楽と文学を学び、1928年にオルフェオン・ラマスを結成し、合唱曲を自作するようになる。1930年にはベネズエラ響を設立。1941年にはなんと民主行動党の創設にも携わっており、国会議員も務めている。ベネズエラにおけるクラシック音楽の発展に大いに寄与した人物であり、さらに言えば国全体の発展に寄与した人物といったところだろう。
この杮落とし公演には当然ヒメネス将軍も参列しているのだが、そこで語り草となっているのが、ベネズエラ響創設者であるソホと、同じく創設者の一人でコンサートマスターだったリオス・レイナ(1905-1971)のエピソードだ。ソホの友人であるフェリペ・イスカレイという人物の証言が残っている。
大統領が来られるので国歌斉唱から始めなければならないのですが、第1部の指揮者だったビセンテ・エミリオ・ソホは、それを拒否したんです。彼は「あの簒奪者の総督に敬意を表するつもりはない」ときっぱりと断言しました。話し合いと交渉の末、国歌はコンサートマスターのペドロ・アントニオ・リオス・レイナが指揮し、コンサートは1時間遅れで始まりました。フルトヴェングラーは何もわかっていなかったでしょうね。これはホセ・アンヘル・ラマス財団とコリナス・デ・ベロ・モンテ都市圏の首長でもあるイノセンテ・パラシオス博士から聞いた話でもあるのですが、私にもマエストロ・ソホ自ら話してくれました。ペレス・ヒメネスはマエストロを非常に尊敬していたので、この出来事を重要視せず、むしろそのことに気づいていて、ただ微笑んでいた、とさえ言っていました。ヒメネスはかつてソホに勲章を与えたそうですが、マエストロはその式典に出ることもなく、ヒメネスはビロードのケースに入った金のタクトを送ったそうで、後にマエストロ自身から聞いた説明によると、そんなものグアイレ川に投げ捨てた、とのことです。
反対意見を徹底的に封じ、政治犯には拷問を加えたヒメネス将軍に対して、ソホもまた徹底した態度で臨んだのであった。まかり間違えれば投獄されていたかもしれない不敬な態度だが、自身も創設メンバーの一人であった民主行動党を裏切って独裁政権を敷いた者を許す訳にはいかなかっただろう。一方のヒメネス将軍もまた、民主行動党の創設者の一人でありベネズエラの音楽界の重鎮でもあったソホに対して、尊敬の念があったとはいえ、そのような態度を不問にするだけの度量があったのもまた事実だ。いかにも強い男たちのやり取りという感じがするし、そんな中で国歌を指揮したリオス・レイナの心中お察し申し上げる。彼らをどう見ていたのだろう。同年、リオス・レイナは同会場で開催された第1回ラテン・アメリカ音楽祭のプロモーターも務め、成功を収めた。図書館コンサートを企画し長く運営したり、合唱団を組織したり、晩年には自身のオーケストラも創設。ベネズエラのクラシック音楽発展を支えた重要人物となった。この記事の初めにも少し書いたが、今のベネズエラ響の本拠地であるテレサ・カレーニョ劇場のリオス・レイナ・ホールの名称は、彼を讃えて付けられたものだ。リオス・レイナ指揮ベネズエラ響による録音も残っており、1956年にヴィルヘルム・ケンプと共演したモーツァルトとベートーヴェンのピアノ協奏曲集がある。
余談、ベネズエラのフルトヴェングラー
フルトヴェングラーその人もまた、ヒンデミット事件に代表されるように、ナチス政権とは色々あった人物である。そんな彼が最晩年に客演したまさにその会場で、上述のような出来事に遭遇しているというのは、どうにも面白い。しかも、それが彼の全く知るところではなかったというのも。彼もまた自身の信念を貫かんと独裁政権と戦った人物だ。フルトヴェングラーが総統の前で国歌演奏を拒否したなんて話は聞いたことないが、もしそんなことをしでかしたらどうなっていただろうか。党が退廃芸術と見做した音楽を擁護しただけで職を失するのである……。その点、ベネズエラの将軍と巨匠はなんというか、めちゃくちゃである。本人の前で国歌演奏を拒否し、それを笑って認めるという、ちょっと信じがたい話だ。イメージの沸かない人は、ロ◯アでも北◯鮮でも中◯でも、国家元首の前で同じことをやる指揮者を想像してみてほしい。もっとも、ソホの場合はヒメネス将軍が参加していた政党の創設メンバーだったという状況も大きかっただろう。ソホはすごい人物なのだ。
僕はフルトヴェングラーのカルト的支持者ではないが、さすが有名指揮者ともなるとこのようなレアな録音も残って流通するもので、彼のおかげでベネズエラの楽壇について知れたことに感謝の気持ちも湧いてきた。ありがとうフルトヴェングラー。ちなみに、ベネズエラとフルトヴェングラーで検索すると、最初に出るのはエドゥアルド・チバスですね。彼は「ベネズエラのフルトヴェングラー」という二つ名が付けられているそうです(笑) そういうキャッチフレーズはともかく、検索したときにぜひ、この記事がトップに出てくるようになると良いのですが。
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more