ショーソン 詩曲:秋の日の ヴィオロンの ためいきの

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ショーソン 詩曲 作品25


ヴェルレーヌの最も有名な詩である『秋の歌』の最も有名な冒頭のフレーズ、「秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」は、ショーソンの最も有名な作品である詩曲のヴァイオリンの独白にふさわしい。同時代を生きた芸術家同士(ヴェルレーヌの詩にショーソンが歌を付けた作品もある)、詩曲の方が後年の作になるが、近い世界観を持つことに異論はないだろう。
ショーソンの曲について書くのは2013年に交響曲について更新して以来となる。実はすごく好きな作曲家なのだが、あまり好き過ぎると書くのも億劫になるというか、偉大な音楽の前に何を書けば良いのか思い悩んでしまう。
また、今回取り上げるヴァイオリンと管弦楽のための「詩曲」は、ショーソンの数少ない曲の中でも有名な方で、演奏機会も録音も多いし、管弦楽ではなくピアノ伴奏で弾かれることもあり、それこそあらゆる場所でよく語られている方だ。その割には、ヴェルレーヌの超有名な詩を引き合いに出す論調は、インターネットではあまり見当たらない。こんな稚拙な手法は、博識な物書き達には小っ恥ずかしくて、誰も語りたがらないのだろうか。ならば買って出ようではないか。
いや、本当のところ誰もいなかった訳ではない。ヴェルレーヌの『秋の歌』と、ショーソンの作品21(いわゆるコンセール)の2楽章を挙げている人ならいた。確かにこれも納得できる。そっちの方が穏やかさもあり、秋という感じがする。詩曲はもっと極寒のイメージすら想起させる。しかし、節の長いすすり泣きのような「ヴィオロン」となると、どうにも詩曲の長いソロを彷彿とさせる。
そもそも、ショーソンはヴェルレーヌではなく、ツルゲーネフの『勝ち誇る愛の歌』という小説から着想を得た交響詩として作曲していたという事実がある。三角関係を描いた強烈な愛のストーリーとショーソンの描いた音楽はまさに合致している。しかしショーソンはその後、標題性を超えより普遍的な「詩曲」(Poème)へと変えている。だからどうして、後世に生きる我々がツルゲーネフに縛られる必要はない(もちろん読んだ方がいいとは思うが)。弾く人も聴く人も、そこから感じた詩的なものを、各々のロマンとポエムに昇華して良いはずだ。


14~17分ほどの単一楽章による作品。独奏ヴァイオリンに、管弦楽かピアノで伴奏するのが一般的だ。ショーソンの音楽に対しテクスチャ過多を指摘したドビュッシーも、この作品は絶賛している。確かにショーソンの音楽の中では楽想が明快に顔を出す。僕のようなこじらせたファンはその重たさがないのは残念だが、それを加味しても余りあるヴァイオリン協奏曲としてのヴィルトゥオーゾや、標題ある交響詩として書かれた際の名残であるオリエンタルな響き、そして圧倒的な熱量の物語性とメランコリックな旋律の魅力がすさまじい。
そう、極度にメランコリックなのだ。ときに晴れ間も見せるが、基本的に曇っている。辛い、とにかく辛い。人生は辛く苦しいということを、それでもなお生きるこの世界の美しさよと森羅万象を描き出そうとしたのがマーラーならば、寒空の下で秋風を受け唯一人ひたすらに辛さを噛みしめる人間の内の内を描いているのがショーソンである。
変ホ短調の序奏から、どんよりとした重苦しい空気が包み込む。それでもオーケストラはまだいい、木管のソロや音色の移り変わりが明白だ。ピアノ伴奏はいっそう物憂げである。
ヴァイオリンの登場もあえて低音から入る徹底ぶり。いきなり空気を壊したりしない。この主題が、ひたぶるにうら悲しこのメロディーが、なんと美しいことか……。伴奏が追って再び奏で、感傷に浸ろうにも、ヴァイオリンの独白がそれを遮る。ペザンテでまた重いソロがより長く辛さを吐露しているようだ。そしてそれを慌てて止めるように入る伴奏もいい。ソロと合わさって音楽はアニマート、共に命を与えられたように動き出すのだ。
と、こんな調子で文章を曲の終わりまでやっていたら大変なのでこの辺にするが、やはり縦の線ではなく横の流れで作られている、建築ではなく物語なのだと、自分で書いていて再認する。もちろん舞踏性の高いリズムや、金管の咆哮やトゥッティの厚みなどオーケストラ作品としての過不足の無さも名曲たる所以だが、ヴァイオリンの歌い方とそれに沿った話の(音楽の)進め方に依る割合は大きい。
ツルゲーネフの物語で言えば、これは恋に敗れた男が呪詛にも近い愛を奏でるヴァイオリンである。悲しい、しかし愛しい。失恋を知るものは誰しも「たったひとりの女のために わたしの心は痛かった」(Ô triste, triste était mon âme / À cause, à cause d’une femme)と、恋のルサンチマン、うらみ・つらみ・ねたみ・そねみ・ひがみを抱きながら愛の旋律を奏でたことがあるだろう(堀口大學訳ヴェルレーヌ『無言の恋歌』より忘れられたアリエッタその7とRHYMESTERにスペシャルサンクス)。
実際は秋だろうが冬だろうが、あるいは恋でも夢でもなんでも良い。この音楽は誰もが自分の憂いや悲しさ、愛しさそのものを追想することのできる、またそうすべき曲なのではないかと思う。ヴァイオリンのためいきは身にしみて悲しい。落葉を翻弄するがごとく、聴くものの心を翻弄するのだ。まるで秋風のように。

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)
ヴェルレーヌ (著), 堀口 大学 (翻訳)

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ジノ・フランチェスカッティ


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