ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」
前回は2024年が生誕200年にあたるスメタナの曲を取り上げたので、同じく生誕200年のブルックナーにしよう。交響曲第4番、この曲は僕がブルックナーを好きになったきっかけの曲の一つでもある。はじめはそんなに好きじゃなかった、というか、そんなに興味がなかったブルックナーを、少し聴き始めて好きになってきて初めてブログに書いたのが2009年1月、交響曲第7番。2009年は、ブルックナーの音楽にハマった年でもある。まあ開眼したと言ってもいい。翌年にミサ曲についてブログに書いている。ブルックナーを取り上げるのはそれ以来だ。
きっと今年はブルックナーの演奏会も多くなるだろうし、それに伴いブルックナーを特集した記事なんかも沢山出るのだろう。クラシック音楽ファンの中でも好き嫌いがはっきり分かれがちな作曲家で、苦手に思う人も多い。だからきっと今年はブルックナー入門的な話題が増えるんだろうなと思い、僕もそれに乗っかろうという魂胆だ。何しろ12月にちょっと気味の悪いブルックナー入門記事を見てしまってTwitterで愚痴ってしまったのだけど、では自分がブルックナー入門的な文章を書くならどうなんだ、と考えたのもある。残念ながら僕は音楽家でも音楽学者でもないので、あまり専門的な話はできないけれども、自分がどうやってブルックナーを好きになったかは、思い出して記録がてら、この記念年に書いておいても良いなと思ったのだ。ということで、これは楽曲解説ではないものの、僕なりのブルックナー入門である。誰かの鑑賞の助けになれば嬉しい。
交響曲第4番はブルックナーの交響曲の中でおそらく最も有名な曲で、僕もブルックナーの中では1番好きだし、全てのクラシック音楽の曲の中でも相当好きな曲だと思う。よくブルックナーを最初に聴くなら4番がいいとか、あるいは7番がいいとか言われる。マニアはいや5から聴けとか8が最高とか9こそ云々と言うが、まあ別に何でも良いのだろうけど、僕はやっぱり、4か7から聴くのがいいと思う。個人の好きな推し番号は色々あって当然だし、いや自分は◯番を聴いたおかげでブルックナー好きなったんだという意見は様々あるのは理解した上で、「あまりブルックナーに親しんでこなかった人の多くにとって、これから聴いてみたいので何番から聴いたらいいか」のその一点だけで言えば、絶対に4か7だと思う。もう1つお薦めしたいのは、1番(あるいは0や00)から順番に全部一通り聴く方法である。
ブルックナー鑑賞に付き物の稿や版の話、これも複雑だが、4番を鑑賞するだけならこれさえ押さえていれば十分かな、と思うことを記しておこう。まずブルックナーが1874年に作曲したものが初稿(第1稿)、1878年と1880年に改訂した第2稿(1878/1880年稿)が現代で最も一般的に演奏されるもの、1887~1888年にブルックナー監修下で弟子が改訂したのが第3稿(1888年稿)。最後の第3稿が初めに出版された「初版」であり、その初版はレーヴェという弟子の手が加わり過ぎの「レーヴェ改鼠版」だと批判され、一つ前の第2稿を用いたものが、改変された初版に対して「原典版」とか、校訂者の名前を取って「ハース版」と呼ばれる。ハースは戦前の校訂責任者だったがナチ関与等で戦後ノヴァークという人物に取って代わり、戦後は「ノヴァーク版」として第2稿の改訂版が出ている。
別にこういう話を知らなくても十分楽しめると思う。というのは、ブルックナーの交響曲は内容理解や背景知識などを置いておいても、オーケストラをフルに鳴らした壮大で圧倒的なサウンドを浴びるように聴く、という楽しみもあるからだ。それこそ、前回のスメタナの記事でも書いたが、教会のオルガンのように。オルガン奏者だったブルックナーはオーケストラという巨大なオルガンを弾いている、と捉えることもできる。音楽の流れを突然ぶった切って次の場面に入るのも(これをブルックナー休止という)、オルガンが音色を変えるために一旦手を止めてストップを操作し、次の場面をおもむろに弾き出す、というのに近いかもしれない。当時ロマン派の交響曲でそのような手法を取る作曲家はいなかった訳で、そこがブルックナーのオリジナリティでもあり、苦手と言われがちな一つの要因でもある。ただ「オーケストラというオルガンを弾いている」と考えることは、この人の交響曲はブラームスやドヴォルザークやチャイコフスキーの交響曲と違うんだから、それらとは聴き方を変えないといけないな、と聴き手が気づくきっかけになるはずだ。
ブルックナーは自分のやりたい書法を貫き、彼の方から聴き手に歩み寄ることは(ほぼ)ないので、こちらが歩み寄らなければならない。その歩み寄りというのが、例えば稿や版を知ることや、1番(あるいは0や00)から順番に聴くことなのだ。4番より前の作品を聴いたり、あるいは4番の初稿を聴いたりしてから、今最も演奏されている4番の第2稿を聴くと、そこに至るまでどれほどブルックナーが努力をして、洗練させ、美しく聴かせられる音楽を作り上げたかがわかる。びっくりするくらい変わっている。原石と磨いた宝石くらい変わる。最初からそれを出せないブルックナーが不器用なのかもしれないが、そうして試行錯誤して磨き上げた音楽なのだと知れば、きっとそれまで以上に聴き手側も愛情を持って耳を傾けられると思う。まあ僕はそうだったという話だ。
第1楽章は弦楽のトレモロから始まる。原始霧、なんて言われたりもする。ベートーヴェンの第九以来のトレモロ開始交響曲かもしれない。ホルンが現れる。美しい。このホルンが何を示すかなどは置いといて、とにかくホルンってなんて素晴らしい楽器なんだと、この楽章を聴いていると思う。ブルックナーは音楽がぶつ切りとかメロディがわかりにくいなんて言われるけど、この4番の第1楽章はブルックナー休止もほとんどなく、美しい旋律が流れていく。弦楽器のトレモロはビロードの絨毯か、整った芝生か、なんとも心地よい響き。リヒター指揮の音盤の解説で金子建志氏が「登山に譬えて言うなら、あたかも頂上に到達したかのように視界が晴れ、眼前に広大な下界のパノラマが広がったかのような印象を与える。別にキリスト教徒でなくとも、大自然=神という汎神論的な感動を受ける箇所と言えよう」と書いた、金管のコラールが聴きどころの一つだ。ブログ冒頭に貼っているヴァント盤だと10分くらいのところである。いきなり皆が皆そんな風に感じるとは思えないけど、多分聴き続けていれば、あるときふとそう思う瞬間が来る。僕はその瞬間が来たから好きになったわけだ。自然でも、神でも、宇宙でも、何でも良いけど、人間を超越した何か圧倒的な存在を感じてほしい。
第2楽章は緩徐楽章。霧深い森や角笛の牧歌が描かれる第1楽章を山に譬えることができるなら、第2楽章はもう少しなだらかな道をゆっくりと散歩しながら此処其処の景色を眺め、空気の質感の違いを肌で感じるような、そんな音楽である。鬱蒼としているようだが、ときに木漏れ日も感じる。ヴィオラが活躍するのも注目だ。穏やかな場面ばかりではなく、途方も無い大爆発のクライマックスもあるのが不思議なところ。金管の使い方からはワーグナーの雰囲気を感じ取れる。もしかすると、初めて聴く人はちょっと長くて飽きちゃうかもしれないけど、何度も聴いてじっくり味わうと深みがあって実にいい音楽である。
第3楽章スケルツォ、これは中世の騎士が白馬に乗って颯爽と狩りに出かけるシーン、だとブルックナーが手紙に書いている。この楽章の格好良さは何も知らない人でも十分楽しめるだろうが、第1稿と比べると、ものすごく親しみやすく明朗快活に変化したんだなとわかる。森深き古城から白馬の騎士が登場して湖畔を駆ける、なんていかにも古いドイツらしい雰囲気。第4番の副題「ロマンティック」、これはブルックナーがこの曲をそう呼んだからだそうだが、意味としては人間の感情ではなく、中世ロマネスクへの憧憬、山や森などの自然賛美と神への感謝であると、この楽章からもわかるだろう。
第4楽章フィナーレ、冒頭の主題には第1楽章と第3楽章のリズムが使用されている。これもまたベートーヴェンの第九の第4楽章のようだ。聴きどころだらけ、どこをとっても美しいが、特に最後がいい。まるで天国への階段を一歩一歩上っていくように、そしてついに天上にたどり着いた、という終わり。初稿だとこれが怒涛の勢いで行軍していくのだが、この第2稿のクライマックスは本当に良い。何度聴いても感動する。
なんか一丁前に書いているが、こうした事柄ははじめブルックナーに詳しい人に教わったのだった。もちろんその後、自分でも色々調べたりしたが、僕の場合はそういう先達がいたのは大きかった。今でも時々Twitterなどを見ると「ブルックナーを好きになりたいのでオススメ教えてください」という人を見かける。そうすると群がるようにコメントが付く。あれがいい、これがいい……その中には本当に善意で伝えたい人もいれば、ただ自分語りをしたいだけの人もいるだろうし、誰かよく知らない人からの情報や知識にどこまで自分が納得できるのだろう。全く知らない人たちから助言を得られるのはインターネットのメリットでもあるが、当然デメリットでもある。僕はそういう意味で、自分なりに「この人は信頼できる」と思えた人から教えてもらえたのが良かった。その人はもう亡くなってしまったが、今度は僕が少しでも、ブルックナーの音楽の魅力を広めることに役立ちたい。だからこそ、上のような内容を書いたのだ。これを読んでいる「ブルックナー入門」という文言に興味を持ってくれたブルックナー初心者にとって、僕は「信頼できる人」かどうかわからないけれど、もし信頼できたら参考にしてほしい。
ただ、これらの事柄はあくまできっかけであって、僕が本当にブルックナーを好きになったのは、決して音楽的知識のおかげだけではない。はっきり言うと、好きなれたのは、相当回数を聴き込んだからだ。暇な大学生時代・大学院生時代に(暇なら勉強しろ)、ランニング、ジョギング、散歩するときの定番として、ヴァント指揮ケルン放送響のブルックナー全集があった。パソコンの前でレポートをしながら聴いたこともあったが、公園などで走り(歩き)ながら聴くのも良かったような気がする。僕にはブルックナーをもっと好きになりたいという明確な意志があり、こちらから歩み寄るべく、何度も何度も繰り返し聴きまくった。結局はこれなのだ。何度も聴くうちに、何かが見える。ブルックナーの音楽にはそれをするだけの価値があるのは間違いない。もちろん生演奏も素晴らしいし、中には1回聴いただけで好きになる人もいるだろう。具体的に何回聴けとか何年聴かないとわからないとか、あるいはあの指揮者あのオケあの名演名盤で聴けとか、そういう問題ではない。自分の中で何か腑に落ちる瞬間に出会うまで音楽と向き合う、それが音楽の醍醐味だろう。何度でも聴いてほしい。きっけかは他人が与えてくれるが、最後は自分なのだ。
余談。ブルックナー入門において最も大切なのは良いと思うまで聴くこと、という、しょうもないことを仰々しく書いたので、あとはこの玄人ファンのブログ読者諸氏や、入門書など不要というオタクのために書きたいのだけど、拙者ブルヲタではござらんので、マニアックな話はこれとかこれで勘弁してほしいんですが……ブルヲタではないがスヴャトスラフ・リヒテルならそれなりに詳しいので、マニア向けおまけ情報として書いておこう。
リヒテルのブルックナーへの言及は多くないが、幼い頃からピアノ連弾版で交響曲第8番を知っていたそうで、1971年のザルツブルク音楽祭のカラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏を聴いて「8番はブルックナーの最高傑作」「今回のカラヤンは表現力豊かで人間味があり、非常に完成度が高かった、感動した」と書いている。また第9番についてはフルトヴェングラーの録音を聴いて「なぜかこの曲には慣れない、印象に残らない、どういう訳か頭からこぼれ落ちる」と、それこそ腑に落ちないようだ。傑作と言われているが自分はそうは思わない、しかしフルトヴェングラーはできる限りのことをしている、この交響曲は謎だ、とも。確かに第9番は謎めいていると僕も思う。そういえば、さっき4番の3楽章でドイツ的と書いたけど、フルトヴェングラーがこのように書いている。
「ブルックナーがこれまで主としてドイツのなかで関心をもたれていたので、ブルックナーをとくに《ドイツ的》だと賛美する人がいますが、そういう人にも賛成できませんね。フランス人のドビュッシーに対する愛好、ドイツ人のブルックナーに対する愛着は、そういうことで軽蔑すべきものではありません。だがまた、ドビュッシーがまったくただ一部のフランス人だけからしか理解されず、ブルックナーがその固有の本質の点では一部のドイツ人からしか理解されていないというのが事実であっても、それは、両方にとってなんの役にも立ちません。ドビュッシーとブルックナーが限られた国の代表者であるだけでなく、全ヨーロッパ的な音楽家であるという見解でこの二人に注目することのほうが、ずっと大きな意味をもっています」
これは文脈があるので、別にフルトヴェングラーがブルックナーを否ドイツ的と言っている訳ではないけどね。そういう考え方もある、と。リヒテルの話じゃなくなってしまった。リヒテルが第9番をそういう風に捉えているのは驚きかもしれないけど、フルトヴェングラーのような考え方には同調しそうだ。
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」
ヴァント(ギュンター) (アーティスト, 指揮), & 2 その他
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」
リヒター (アーティスト)
Bruckner: Symphonies No.1 – 9
Anton Bruckner (作曲), & 2 その他
Sviatoslav Richter: Notebooks and Conversations by Bruno Monsaingeon(2005-03-03) ペーパーバック – 2005/1/1
Bruno Monsaingeon (著)
音楽を語る (河出文庫) 文庫 – 2011/10/5
ヴィルヘルム フルトヴェングラー (著), 門馬 直美 (翻訳)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more