ショーソン ミアルカの歌:巷に雨の降るごとく、チピチピチャパチャパ、ランランラン

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ショーソン ミアルカの歌 作品17

ショーソン好きを自称する割にはブログ登場回数がさほど多くなくて申し訳無いなと、思い立ったが吉日で書いている。このブログは好きな音楽についてただ何か書きたい衝動から書いているのはもちろん、それを紹介し、もっと世に広めたい思いもあってやっているが、ショーソンに関しては、自分が好きならそれで良くて、別に大勢に知ってもらわなくてもいいなという気持ちも大きくなってきた。まあ個人的な趣味嗜好なんか何でもそういうものかな。でも、ことショーソンにおいては、他のお気に入り作曲家よりもそんな傾向が強いかもしれない。他の人がどう思っているかは知らないけど、きっとショーソンを好きな人ならわかってもらえるかもしれない。

いつの時代も良いものは必ずしも目立つ訳ではない。それにしても、エルネスト・ショーソン(1855-1899)は見過ごされがちだ。同時代のフランス音楽界隈はまさに花盛り、ドビュッシーとラヴェルという現代でも超人気のビッグネームがいるので仕方ない。今回は歌曲を取り上げるが、歌曲の分野にもフォーレやデュパルクがいるので一番人気にはなり難いかもしれない。僕はたまたまショーソンの歌曲にビビッと来てこのジャンルが好きになってきたという事情もあり、思い入れが強いのだ。
現代でも、また音楽以外の分野でもそうだが、基本的に真面目で穏当な人は目立たない。それがどんなに素晴らしくてもそう。メディアでもSNSでも、品性の汚い人がそれを曝け出して共感を集めるような場面ばかり目について嫌になっちゃうけど、きちんと真っ当なことを言う人は目立たないながらも存在している。そういう人を大事にしたいなと思う日々である。いや、別に不倫大好きドビュッシーが目立って、完璧な家庭人であるショーソンが目立たないことを妬んでいるわけではないし、猛烈苛烈な音楽オタクばかりバズって、僕のような真面目で温厚篤実な音楽好きがバズらないのを妬んでいるのでもないぞ。本当だぞ!
現代ならきっとドビュッシーは再起不能なほどに総叩きにあっていたかもしれないが、ショーソンは正反対の人物である。振る舞いは常に上品で穏やか、寛大な人柄でユーモアもあり、国民音楽協会では書記長の仕事も行うほどしっかりした人物だ。皆も想像できるだろう、事務仕事がきちんとできる音楽家というのは、いつの時代も貴重なものだ。もしショーソンがもう一つ上の世代だったら絶対に出世して大教授とかになってただろう。裕福だったので、ドビュッシーが「結婚するから金を貸してほしい」と申し出た際にも支援しており、結局ドビュッシーの愛人関係で破断になった際は、ショーソンは手紙でドビュッシーをきつく叱ったそうだ。音楽的に尊敬し合う友情を築いた二人はそこで疎遠になったが、ショーソンはドビュッシーの奔放さを受け入れられない、真面目で穏当な倫理観の人である。

そんなショーソンの歌曲、このブログでは14年も前になるが、最晩年の作品「終わりなき歌」(1898)を取り上げた。今回取り上げるのは「ミアルカの歌」(1888)という少し珍しい曲。ジャン・リシュパン(1849-1926)の小説『ミアルカ、熊に育てられた娘』の主人公ミアルカが小説の中で歌っている詩に音楽を付けたものだ。日本語で小説のあらすじを書いているブログを見つけたので貼っておこう。


ジプシーの娘で熊に育てられたミアルカがハチャメチャな人生を送るぶっ飛びストーリー、さながらカルメン。ミアルカも謎の強運というか予言というか主人公補正というか、ハッピーエンドが運命づけられている強い娘である。伊達に熊に育てられていない。
ショーソンの歌曲は2曲からなり、第1曲「死者」、第2曲「雨」。梅雨時なので「雨」という曲を取り上げるのも今の季節に良いかなと思ったのもあるし、音楽的にも非常に優れている傑作だと思うのも理由だし、何しろ、そんな誰からも愛される人格者であるショーソンが、嘘と裏切り、放火に殺人に窃盗と何でもありのジプシー愛憎劇を題材にしているのが面白いと思ったからだ。これをビゼーが書いたのなら誰もが納得するような、オペラ向き題材である。実際アレクサンドル・ジョルジュ(1850-1938)というフランスの作曲家がオペラにしていて、原作小説もオペラも当時は流行ったらしい。ショーソンの方は舞台音楽ではなく、あくまで主人公である若い娘が歌った詩に曲を付けたというもの。それもショーソンらしくて良い。歌詞と拙訳はこちら


第1曲“La pluie”(死者)はショーソン存命中に出版されなかったせいか、有名なショーソン歌曲集の出版譜から欠落しているため、昔からあまり知られていなかった曲である。しかし聴いてみたらわかる通り、非常にショーソンらしい。というか、僕の大好きな「終わりなき歌」に近い雰囲気、それを予見するような音楽でもある。ミアルカは両親を早く亡くし、祖母(と熊)に育てられたのだが、その祖母が亡くなり、埋葬する際に歌うものだ。生きている者が残る限り死者は生き続ける、日がまた昇るように、鳥が飛び去っても影が地面に映るように……というジプシーの死生観を歌った内容で、この死に対する態度は、敬虔なカトリックであるショーソンもおそらく共感できるものだったのだろう。モーダルな雰囲気、神秘的な音楽と詩、3分程度の長さにショーソンの魅力が十分に入っている。

第2曲“La pluie”(雨)は追われるように街を逃げ出し旅をする最中、雨が降ってきてミアルカが歌うもの。雨は葉っぱの上で音楽を奏で、塵の中で踊り、乾いた大地に口づけする、という素敵な描写だ。16分音符のピアノ伴奏が雨の様子を表す……という技法も、フランス歌曲ファンならドビュッシーの「忘れられたアリエッタ」の第2曲「巷に雨の降るごとく」を思い出すだろう。ドビュッシーがこのヴェルレーヌ詩の歌曲を書いたのは1887年と言われており、ショーソンの「雨」は1888年に出版されていて、非常に近い時期だ。しかも両方とも嬰ヘ長調で4分の4拍子。二人が初めて出会ったのは1889年のバイロイトでワーグナー作品を鑑賞した際とのことだから、雨の歌曲が偶然似たのは、まだ互いに出会う前である。まるで示し合わせたような音楽になって、二人の音楽的友情は出会う前から始まっていたのかしら、なんてね。良い意味で似ているし、また違いも大きい。ドビュッシーの方は悲しみに打ちひしがれている内容の詩だが、ショーソンの方はジプシー娘の明るく元気で血気盛んな詩、音楽も当然そのようになる。作曲家の伝記を知る現代人の僕から言わせてもらえば「おいおい君たちチョイスが逆だろ」とツッコミたくもなるが、そんなことはどうでもいい。こちらは第1曲よりもっと短いけど、詩の性質もあって、雨は雨でも眩しいくらいに反射して輝いている。良い音楽だ。物語上の時系列としては「雨」の方が「死者」より先で、こんな楽しそうに歌うのも束の間、豪雨になってしまい祖母の体にも不調をきたし、旅の途中で亡くなるという展開。雨の降りしきる中、第1曲の「死者」を歌うのだ。

ミアルカは「雨」を歌う前に、同行者たちに「あんたたち、雨に文句言ってるのね、幸せじゃないわよ」と言って、陽気に歌い出す。どことなく気分も上がらない梅雨の季節、滋味深い室内楽を味わうのも大好きだが、雨に文句言わずに、たまにはジプシー娘の力強い前向きソングを聴くのも良いだろう。それでもショーソンは、しっかりお上品に仕上げてくれるところ、やっぱ好きだなあ。

The Hyperion French Song Edition
Ernest Chausson (1855-1899)
Songs

Debussy Melodies: Ariettes oubliees; Fetes galantes;Cinq poemes de Charles Baudelaire)
Barbara Hendricks


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