シューベルト 夜と夢:もう少しだけ、もう少しだけと、僕に君はつぶやく

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シューベルト 夜と夢 作品43-2 D827

先日N響の定期演奏会でアントワン・タメスティのヴィオラを聴いた。とても良かった(感想記事はこちら)。タメスティもまた世界最高のヴィオラ弾きの一人と言えるだろう。ピアニストの藤田真央さんがエッセイで以下のように語っている。

タメスティは私以上に、一音一音に対するこだわりを強く持つ。シューベルト《夜と夢》では「シシシシシ ソシレミ」というヴィオラの旋律があるが、彼は5回続くシの音色を全て違う色で描いてみせた。歌曲であるこの作品を、たとえ無言歌としてヴィオラに歌わせても、タメスティの手にかかれば歌詞が透けて聴こえるようだ。技巧的でない静かな曲でこれほどまでに聴く人の心に訴えかける訳が、彼の音色にはある。

WEB別冊文藝春秋より。元記事は↓です。歌曲を器楽アレンジで演奏するとなると、歌詞がない分、音色に重点を置くこととなる。特に同音の連続はどう弾くか、奏者の腕の見せ所だ。タメスティは全て違う音色にしたという。元の歌詞では「人間たちは喜んで耳を澄ます」という部分に該当する。間違いなく、聴衆は耳を澄ましたことだろう。


シューベルトの「夜と夢」(Nacht und Träume)という短い歌曲がある。静かでゆっくりと流れる音楽で、どの曲も傑作と言われるシューベルトの歌曲の中でも、ひときわ美しい作品だ。静謐な夜の音楽。タメスティはどんな音色で弾いたのだろうか。星の瞬きのような無限の色を持つ音も良いだろうし、モノトーンで濃淡だけが変わるような音色も合いそうだ。多くの器楽編曲があり、またレーガーはオーケストラ伴奏編曲を残している。様々な演奏を楽しめる曲だけども、まずはピアノ伴奏の歌曲を聴いてみていただきたい。歌詞と拙訳は以下。

Heil’ge Nacht, du sinkest nieder!
Nieder wallen auch die Träume,
Wie dein Mondlicht durch die Räume,
Durch der Menschen stille Brust.
Die belauschen sie mit Lust,
Rufen, wenn der Tag erwacht:
Kehre wieder heil’ge Nacht,
Holde Träume, kehret wieder.

聖なる夜よ、貴方は沈んでいく!
夢もまた浮かんで彷徨う、
貴方の月光が空間を彷徨い、
人間たちの静かな胸に下りてくるように。
彼らは喜んで耳を澄ます、
そして夜が明けたとき、呼びかけるのだ。
戻っておいで、聖なる夜よ、
甘美なる夢よ、戻っておいで。

詩はマテウス・フォン・コリンによる。シューベルトは1825年に曲を付けた。“Heil’ge Nacht”と始まるので、聖夜、クリスマスや冬の情景を思い浮かべる音楽かもしれない。あるいは、夜と夢というタイトルと曲調から、永遠の眠りを想像する人もいるかもしれない。低い男声で聴くとなおさらだ。僕はこの曲に関して言えば、どちらかというと女声の方が好みである。ロ長調という変わった調を選んだ効果が最大限発揮されるし、低く移調すると失われる魅力も大きいように思う。もちろん得られる魅力もあるのだが。
男声だと冬や雪に合う音楽になる一方で、女声だと春の夜に聴くのがとてもよく合う。夜が降りて来て、夢が人々の心に浮かんでくる。夜が明けると、夜と夢に戻ってきてくれと叫ぶのだ。まさに春眠暁を覚えず。僕なんか毎朝起きるたびに、もう一時間くらい戻っておいで夜よと呼びかけているが、そういうのではなくて、もっと綺麗なやつ。甘美なる春の夜、甘い甘い夢の時間。
寝不足おじさんの心の叫びはともかく、透き通るようなソプラノが、現実を超越した世界とその終わりを惜しむように歌うのには、これ以上ないほどの美しさがある。おじさんの妄想と言ってしまえばまあそうかもしれないが、新古今和歌集の藤原定家の歌でも引いておけば少し説得力が出るのではなかろうか。

春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空

高校の教科書にも載っている、有名な歌だ。春の夜のはかない夢が途絶え、目覚めるとたなびく雲が峰から分かれていく、明け方の空。当時、朝は恋人たちにとって別れの時間であった。それと同じ解釈をするのがシューベルトの歌曲の正解だと主張するつもりはないけれども、僕は個人的に、美しい女声で歌われるとき、この曲からはそんな情趣も味わえるなあと思ってしまう。

平安貴族でも結構だが、やはりもう少し身近にしたい。春の温泉街はどうでしょう。萩原朔太郎を引いておこうか。

だから伊香保は、どうしても春でなければいけない。尤も春といつても、山の春は遅いから、伊香保で春といへば五月か六月であらう。その頃の伊香保はほんとに好い。一体、伊香保に限らず、温泉町の春の夜は別である。裏町の溝を流れる湯の匂ひや、朧ろにかすむ紅色の軒灯や、枕に近い湯滝の音やが、何とも言へぬ春らしい感じを起させる。浴室の硝子障子を通して新緑の山を見てゐると、どこかで鶯が鳴いて居る。さうした「静かな華やかさ」を味ふには、伊香保へ春くるに限る。この頃伊香保へきて感じを悪くするやうなことは決してない。

『石段上りの街』というエッセイより。温泉町の春の夜、これだ。一人旅、春の朝の目覚めのシューベルトというのも良いでしょう、ですが! やっぱりここは、朔太郎には悪いけど、そういう情緒を共にする恋人との時間を思わせてほしい。いいだろ別に、妄想だぞ妄想。普段会えない「遥かなる恋人」との温泉旅なんていかが。ああ、月の光が差し込む宿の間で、彼女は言うのだ、O lass im Traume mich sterben. こんなにも熱い夜なのはどうしてだろう。いや普通に五月も六月ももうめっちゃ暑いからね、朔太郎が書いた頃はそんなことなかったろうにね。でも朝が来たら言うんでしょう、せめてあと一時間だけ、熱い夜のままでって。僕の腕をつかみながら、君は「もう少しだけ」「もう少しだけ」と、僕に、君はつぶやく……11時には部屋を出ないとね、チェックアウトだ。


だいぶおふざけが過ぎたが、男声でも女声でも、編曲も含めれば多種多様な形で楽しめる「夜と夢」はやはり傑作中の傑作だ。冬のイメージが強い歌かもしれないが、ここは一つ春の歌としての鑑賞を提案してみよう。記事冒頭に貼った音盤はエッダ・モーザー(S)とレナード・ホカンソン(p)の1983年録音、大好きな録音の一つだ。雰囲気が良く、強い気持ちも感じられ、あまり瞑想的になり過ぎることのないモーザーの歌が、そういう解釈においてもよく似合うのに加え、ピアノ伴奏も実に良い。16分音符の刻みを継続するこの伴奏は、ジェラルド・ムーアをして「もっとも難しい曲」と言わせるほどのものだが、ホカンソンのピアノは神経が張り巡らされているように完璧だ。↓のフォンタナの歌唱も大好き。色々聴いて、色々想像して楽しもう。たった数分間の音楽、あっという間に聴き終わってしまう。もう少しだけ、もう少しだけと、シューベルトのリート集を聴き進める。ああ、なんて儚く、美しい、春の夜の夢の如し。

Gabriele Fontana – Schubert Lieder


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Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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