シューベルト 交響曲第7番 ロ短調 D759「未完成」
クラシック音楽の楽曲紹介エッセイは、これがちょうど600記事目。2008年に始めてもう17年も経ってしまった。このページに過去のもの全て番号を振ってまとめてみた。眺めているとなんとなく面白い。人に読んでもらう前提で書いてはいるものの、プロの物書きではないし、どちらかというと自分自身が書くことそのものに意味がある。たまに自分で読み返すと意外な発見があり、なかなか楽しい。
キリ番だから有名な曲にしよう。今回はシューベルトの未完成だ。運命や田園、新世界より、革命などなど、愛称や副題が有名な交響曲は、ブログを始めた最初の頃は積極的に取り上げてきたのが段々と億劫になって……という話は過去にも何度かしている。要は僕も、他人からそれなりに詳しい人だと思われるようになってくると、色んな人が色んなところで既に語っている有名曲について書くときに「他人と違ったことを書かなければ!」と必要以上に気負うようになってしまったのだ。だからいわゆる名曲は、鑑賞はするけれども、ブログに取り上げることからは逃げていた。仕事も育児も忙しい、という都合の良い言い訳もあった。いやマジで忙しいのは事実なんだけども。
しかし子どもも大きくなってきて「あれ?もう子育ても折り返し、後半戦なのか!?」と思うようになると、突然自分の人生も後半戦であることを意識するようになった。急に、有名な曲についての話も自分で何か書かないと、とうとう触れることなく終わってしまうのでは、と思い直し、なるべく書いてみるようにしている。ここで「未完成」のエッセイを書けば、残す有名な愛称のある交響曲は第九くらいかな? まあまあ、僕もブログを長くやってきたけど、まだまだ未完成ですよってことで……そもそもブログという媒体に完成形とかないんだけどね。
シューベルトが1822年に作曲し、途中で放棄してしまった通称「未完成交響曲」D759は、その通称が示すように、あらゆる未完成の音楽の代表、未完成であることの象徴のような扱いをされている。未完成と言えば誰がなんと言おうとシューベルト。ブルックナーの交響曲第9番も、マーラーの交響曲第10番も、エルガーの交響曲第3番も、未完成だが「未完成」と呼ばれることはない。シューベルトは元祖未完成の地位を守り続けている。そしてこの交響曲はまるで「未完成でも良いのだ」と多くの人に許しを与えてくれているような存在でもある。人も音楽も、未完成でも大丈夫なんだよ、とね。
常にみかん星人、ではなかった、未完成人である僕は、この曲のそういう寛大なところが大好きだし、そうでなくても普通に好きな曲なので、Twitter(X)では何度か好きな演奏を紹介している。昨年と一昨年に挙げた、フリッツ・ライナー指揮シカゴ響(1960年録音)とフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(1952年2月10日Live録音)は、どちらも大好きな演奏だ。
【今聴いています】シューベルトの未完成、フリッツ・ライナー指揮シカゴ響の1960年録音を。好きな演奏の一つです🥰 LP時代の名盤も、CDは意外とない? ↓のRCA録音全集63CD箱には収録。完璧主義者ライナー、誰よりも「スコアに忠実」な解釈で名曲を聴かせる😎#imakiiteiruhttps://t.co/TxlCuRWbn5 pic.twitter.com/SxWvXDFsRc
— ボクノオンガク (@bokunoongaku) August 18, 2023
【今聴いています】11月30日はフルトヴェングラーの命日だそうです。好きなのを聴きましょう。シューベルトの未完成、ベルリン・フィルとの1952年2月10日Live録音。フルトヴェングラーの未完成も録音多いですが、これが一番好きかな、多分(笑) やっぱりライブが良いね、パワフルだなあ😊#imakiiteiru pic.twitter.com/1gSjI9Fnl2
— ボクノオンガク (@bokunoongaku) November 30, 2024
もっと前にはジョルジュ・ジョルジェスク指揮エネスク・フィル(1963年録音)とメリク=パシャエフ指揮ボリショイ劇場管(1962年録音)も挙げているし、他にも挙げていたがこの辺で。なにしろ録音の数も多いので、全て聴くなんてとても出来ないほどだ。僕も「好きな演奏」と言えるものが結構な数あると思う。数えたことないけど。
その数ある好きな演奏の中で、なぜライナー盤を挙げたかというと、僕は本当にこの演奏が他のどの演奏よりも「スコアに忠実」だと思うからだ。僕は多分、他でも何度か書いている気がするが、さほど「スコアに忠実」という言葉にときめかないタイプなんだけども、それであっても凄いと思ってしまう。いや、序奏のAllegro moderatoとppだって、別に定量的に言えるものではないので、あくまで個人の感覚だけども……それでも、他の演奏では「それは明らかに◯◯ではないだろ!」と思わせること非常に多いのが、この曲の演奏の実情だと思う。
それは指揮者やオケの解釈であり、その違いを楽しむのが鑑賞の醍醐味なのは当然のこと。ただ違いを楽しむには何か基準があるわけで、それも人それぞれ自分なりの基準があるだろうが、もし未完成交響曲座標平面の原点Oは何かと訊かれたら、僕はライナーを推したい。
先に挙げたフルトヴェングラーのツイートでも触れているが、フルトヴェングラーはスコアにないティンパニを追加している(ムラヴィンスキーも行っている)。そういう行為がいけないだなんて、僕はこの曲の場合は微塵も思わない。ある楽器ばかり聴こえて他が聴こえなかったり、スコアの指示を無視してテンポを揺らしたりしても、それを受け入れてくれる曲と、そうではない曲がある。この曲は受け入れてくれる。寛大だ。そんな風に際立った個性ある解釈で成功に導いた指揮者のことも祝福したいけれど、結構そういう指揮者は世の中に多いので、純粋で厳格なスコアの擁護者たるライナーをちょっと贔屓したいなと僕は思っているのだ。
1楽章の序奏だけ考えてみると、これは確かにおどろおどろしい感じがする。悪魔か何か、悍ましい姿のものがやってくるような、そんな雰囲気の劇伴で流れていそうですらある。だから低弦がいかにも怖がらせるように遅いテンポで奏でるというのもわかる。あるいは逆に速く演奏しても、それこそ二枚目俳優が演じるカッコいい悪役のような、キリッとした良さが出る。でもAllegro moderatoなんだから「中庸だけどちょっと速いかな」くらいが一応は正解だろう。そして序奏の後はそのまま同じテンポで弦楽器の刻みに入り、オーボエとクラリネットの両者が等しく溶け合った音色でメロディが歌われるのがシューベルトの書き残したものだ。しかしどうして、序奏の最後のF#は9拍分ちゃんと伸ばさなかったり、弦楽器の刻みになると突如ギアチェンジしたようにテンポを上げたり、クラリネットの何割か増しでオーボエの音色が目立ったりするのだ。さらに言えば、そんな演奏にも妙に説得力があったりするのも確かなのだ。
展開部のクライマックスはこの楽章、いやこの交響曲の最も高ぶる場面で(先のフルトヴェングラーがティンパニを追加した部分でもある)、本当に色んな表情を見せてくれる。どの楽器が前に出るのか、加速するのかタメを作るのか、どんな音楽を作ってくれるか最もワクワクする箇所だ。生粋のウィーンっ子シューベルトだけに、ウィーン・フィルの甲高いヴァイオリンを堪能するのもいい。ピリオド演奏も良いが、録音を聴くと彼らが際立たせてくれるんじゃないかと期待してしまう木管楽器は、思いのほか気遣ってくれないことも多く、全くピリオドではない他の演奏の方が鳴っていたりする。先に上げたボリショイ劇場管や、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのように、チャイコフスキーで聴き慣れたあの冷たくも熱い不思議な雰囲気でも楽しめるし、一方でストコフスキー指揮ロンドン・フィルは往年のハリウッドさながらの豊かなストリングス攻勢が聴ける。それらがシューベルトの本質と言えるかは置いていおくとして、やはり未完成交響曲はそれらを受け入れる懐の大きさがある。
2楽章はAndante con moto、この音楽でcon motoと付けるシューベルトの側に問題があるのではないかと思ってしまうが、そんなことを言っても仕方ない。本来は4楽章あるうちの緩徐楽章ということを想定して、ゆっくりたっぷりシューベルトの歌を歌うような演奏もあるが、con motoがあるおかげで少し速めにする演奏にも出会える。では速ければそれでcon motoなのかというと、それも違う気がする。Andante con motoとは何なのだろう。そんなことを考えつつ、ぜひジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管(2011年録音)とホリガー指揮バーゼル室内管(2017年録音)を聴いてみてほしい。スイスの二都市で聴き比べだ。どちらも僕の好きな演奏で、特に後者はかなり好きな部類に入る。


美しいメロディに陶酔してしまうが、2楽章は弦楽器のスタッカートと管楽合奏が重なるところも良い。特にトロンボーンが肝だ。お好みに合うバランスのもの探したい。考えすぎかもしれないけど、ここの雰囲気はグレート(これもまだブログ書いてない愛称交響曲だった)の3楽章のトリオに近い雰囲気だと思う。その後はクラリネット・ソロが活躍。そこからオーボエ、そして合奏へと繋がっていく、ここもまた絶妙。ほんの短い時間、夢のような色彩。
様々な解釈による様々な演奏、そのどれもが名演であるとまでは言わないとしても、幅広い解釈を受け入れる余地のある音楽であることには違いない。以前アバドの録音についてツイートした際「この曲って、やはりどうやっても味が出るタイプの曲だ」と思ったのだが、もう少し正確に言えば、どうやっても悪くはなりにくい曲なんだろう。
フォロワーさんも指摘されていますが、↑の録音でないと聴けない音符があるレアな演奏です😎 今日は同コンビの「未完成」を。グレートに比べるとそんなに好きな演奏ではないけど、この曲って、やはりどうやっても味が出るタイプの曲だ。1楽章展開部、ピンと張った大きな弧を描く感じ、アバドらしい😉 pic.twitter.com/GyACPV9BOR
— ボクノオンガク (@bokunoongaku) March 5, 2025
そもそも1楽章と2楽章だって、完成品としてグラーツ楽友協会に送ったということだが、もし3楽章と4楽章を完成させていたら1楽章と2楽章だって手を加えていた可能性もある。未完成なのは残りの部分の話だけでない、今まさに演奏されている2つの楽章だって「未完成」で、だからこそ多様な解釈を受け入れる余地があるのかもしれない。
未完成であることへのロマンのようなものがこの曲の価値を高めてきたのはもちろんあるだろうが、それだけではない。この曲のスコアには、未完成であっても演奏したいと思わせるだけの音楽的魅力があるから選ばれ続けているのである。そもそもクラシック音楽、特にオーケストラの曲は、楽譜を作っただけで完成と言えるのだろうか。絵画や彫刻なら、作り終えたその瞬間に完成だと言える。だが交響曲は大勢のオーケストラ奏者たちが演奏して、初めて音になる。この曲の初演はシューベルトの死後40年近く経った1865年だそうだ。それから現代まで「未完成交響曲」として演奏され続けている。
そういう意味では、演奏芸術の魅力とは「完成がないこと」なのかもしれない。どこまでも追求できる、無限の可能性がある。それは永遠の未完成で、音楽という芸術の欠点でもあると同時に美点でもある。未完成交響曲のスコアは魔性だ、絶対の正解など用意されているはずがないのに、すぐ近くに必ず完全な形の正解があるような顔をしてこっちを見ている。天国からの手招き。ユートピアなど無いと知りつつも、信じれば天国へ行けるのではないかと思ってしまう、全てを許す優しく甘い微笑みに絆されて、演奏する者も聴く者も、答えを目指して進まざるを得ない。「完成」というゴールへ。見えているけどたどり着けない、ゴールのないスタート地点に立たされて、迷子になるのを楽しみながら、ただただ高く、遠く、尊いところへ歩き出そう。天国への階段の先で、シューベルトが待っている。
Author: funapee(Twitter)都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more










