シューマン 交響曲第2番:飛び方を忘れた鳥達の歌声を聞いておくれ

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シューマン 交響曲第2番 ハ長調 作品61


今年は7月にシューマンの作品についてブログに書いた。一つの曲で記事を書いたら同じ作曲家は暫くブログに書かないという自分ルールを守ってきたが、もうやめてもいいかなと思い、今年2回めのシューマン。シューマンは好きなので、沢山書きたいのだ。


交響曲ならば2009年、ブログを始めて1年も経っていない頃に交響曲第1番「春」、2010年に交響曲第3番「ライン」について書いた。春もラインも、シューマンの交響曲の中ではとっつきやすい方だと思う。一方で2番と4番は玄人好みと言われる。ブログを始めて17年目に突入したことだし、僕も2番でブログを書いて、玄人の仲間入りだ。


ところでこの交響曲第2番という曲、めっちゃ変な曲だと思いませんか? 玄人好みとはいえ、素人でも玄人でも好きな人は好きでしょうが、各人の好き嫌いはともかく、玄人っぽい人の言う「一見わからないが実はシューマンの交響曲第2番は凄い」とか「高度な作曲テクニックに満ちている」とか、そういう「素人にはわからない凄さがある」的な褒め方は、いまいち納得いかない。確かに凄い曲なんだけども、高度な技法が総合的に上手く機能したかどうかは疑問である。僕はこの曲が交響曲として成功した音楽ではないと思っているし、失敗作とまでは言わないものの不格好な問題作だと思うし、だからこそある種の人を惹きつけるのであり、だからこそ、僕は大好きなのだ。好き嫌いという分け方で言えばね。
指揮者ギュンター・ヴァントはインタビューでブルックナーの交響曲第1番について「病的な作品だ、彼は病んでいた、シューマンの交響曲第2番のように」と語った。何でもかんでもシューマン作品を精神の病と結びつけるのは嫌いだが、この曲からは僕も不健康さを感じる。懸命にもがき、苦しみ、ここから抜け出したい。この堂々巡りから逃れ、過去の偉大な先人の力を借り、先人の交響曲のように苦悩から勝利へ、自由なる精神を勝ち取るのだ……そしてついにシューマンは勝利した、と見なす人もいるだろう。しかし僕には、シューマンがこの交響曲で勝利したようには到底思えない。勝ったふりをしている。不健康である。そこがたまらなく愛おしい。


精神の病に苦しみ、ライプツィヒ音楽院での教職を辞して1844年12月にドレスデンへ移ったシューマンは、クララと共にバッハ研究に取り組む。1845年7月にピアノ協奏曲を作曲。シューマンは日記に、1845年になって初めて作曲時にピアノを使うことから離れ、全て頭の中で構想を練るようになったと書いており、それもバッハの対位法研究がきっかけだろう。1845年12月に交響曲の作曲を開始、心身の不調で時間がかかり、1846年10月に完成。11月5日にメンデルスゾーン指揮ゲヴァントハウス管が初演した際はまずまずの成功で、その後は人気も高まったそうだが、徐々に人気も落ち着いてくる。20世紀ではこの曲の熱心な支持者(カール・シューリヒトやジョージ・セル)が何度も取り上げる一方、指揮者の中には他の番号は取り上げても2番はやらないという人もいる。ヴァントのように「病的な曲」と指摘する人もいるし、4番が大好きで何十回も振ったフルトヴェングラーも2番はほとんど振っていない。


1楽章はファンファーレのような金管から始まる。曲全体を通して各所に出現するモチーフであり、これがベートーヴェン時代の管楽器の自然倍音を意識しているのか、ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」の開始を模したのか、そこは不明だが、ピアニッシモで不思議な感じだ。少なくともこれから勇敢に戦おうとしているのではないだろうし、しかし冒頭から落ち込んで気分が沈みきっている訳でもない、全く不思議な世界の幕開けである。バッハ研究と関連付けて、これをコラール前奏曲と重ねる解釈もある。闘争だか祈りだか知らないけど、シューマンがこの主題と格闘し、なんとか説得力のある形にしようとめちゃくちゃ頑張っていることは伝わる。とかく懸命である、それこそ神頼みではないが、祈るようだ……。こんな、短かくて扱いにくい主題、ベートーヴェン先生のように巧みに扱い「シューマンも職人技で美しい形状に仕上げた」と言い張ることはできるかもしれないが、僕にはそうは思えず、やはりデコボコの残ったまま、意味のない試行を反復しながらなんとか上手く軌道に乗るように進めているのだと思えてならない。多分、そういうオフロードをドライブするのが得意な指揮者にはやりがいが見出だせるのではないか。己の持つ美学と力学をもって、ここからシューマンを、その音楽の持つ真なるものを救ってやりたい、鳴らせて響かせてやりたいと強く思う音楽家であれば。
2楽章はスケルツォ、楽しい、まるで無窮動のようだ。目まぐるしく動く弦楽は機能性の高いオケや、オケをキビキビ働かせたい指揮者にうってつけだ。しかしこの楽しさはあくまで感覚的な楽しさで、さながらヨハン・シュトラウスを聴くときの楽しみと同じである。これが交響曲においてどうなのかというのは別問題。シュトラウスのようにポップで弾けるような愉悦はなく、半笑いの表情のまま踊らされているようで、シューマンらしいと言えばシューマンらしい音楽が繰り広げられる楽章ではある。第2トリオではB-A-C-Hの音型が登場し、ここでもバッハへの目配せ。最後には取ってつけたような共通主題が登場し、力技で曲を終わらせる。変な曲だ。
3楽章は白眉。至高のアダージョ・エスプレッシーヴォ。バッハでもモーツァルトでも「ため息のモチーフ」と呼ばれる下降する音列は様々な音楽で登場するが、この楽章の主題にも当てはまるだろう(バッハの「音楽の捧げ物」のトリオ・ソナタの主題と冒頭が似ている)。7度の下降も特徴的だ。これはため息どころではない、息をすべて吐ききって呼吸困難になりそうなほどに苦しい。バッハの対位法を呼び起こし、ワーグナーの和声を予見するような、本当に素晴らしい音楽。
4楽章は華やかなフィナーレ、開始早々に飛び込んでくるのは、あわてんぼうの管楽器たち。ト長調で主題を奏でると、すぐに「違うだろ、ハ長調の交響曲だろ」と弦楽も入って仕切り直す。この開始は面白い。第1主題はメンデルスゾーンの「イタリア」を彷彿とさせる明るい音楽、第2主題は再び3楽章やバッハを思わせる、これらの主題がここから展開し……ということもなく、大した展開もせず、力尽きたように音楽は消える。すると今度は、シューマンが愛したベートーヴェンの歌曲「遥かなる恋人に」の第6曲「この歌を受け取って」を元にした主題が現れる。幻想曲ハ長調をはじめ様々な作品に取り入れてきた歌曲だ。この主題には、その歌曲だけでなくベートーヴェンの第九の「歓喜の歌」のような雰囲気も感じられるし、ハ長調なこともあってかその後の展開の仕方もベートーヴェンの運命の終楽章、ひいては将来のブラームスの交響曲第1番をも思わせる。勝利し、歓喜のうちに音楽は終わる。


なにも不格好なことなどない、普通のロマン派交響曲、ちょっと古風な、古典派っぽさもある初期ロマン派のよく出来た交響曲じゃないかと言われたらまあ、そう思わなくもない。でも気になる。シューマンが愛したベートーヴェンの歌曲を、「愛する君よ受け取ってくれ、僕が歌ったこの歌を」と歌う歌を、第九をオマージュしながら交響曲の最後に持ってくるなら、どうしてもっとはっきりと伝えないのだろうか、と。このような音楽ではない!と叫び別の次元で音楽を奏で始めるベートーヴェンと違って、シューマンは大きく音楽を変えることはない。全くもって控えめな主張の仕方である。クララだってきっと、もっと大きな声で愛を叫んでほしいと思っているでしょう、しらんけど。
さらに気になるのは、同じハ長調の交響曲でシューマンが発見し復活させた作品、シューベルトのグレートとの関係である。シューマン自身が「天国的に冗長」と評したことで有名なグレートも、特に終楽章ではシューマンの2番と同じようにモチーフを繰り返しながら進んでいくけれども、シューベルトは色彩もエネルギーも常に変化に富んでいるのに対し、シューマンはそうではない。とにかくこの曲は、主題があっても展開しない。1楽章でもそうだったが、4楽章でも、この人はずっと同じところにいて、足踏みしている。どこかに行こうとして、行かない。幸せは歩いてこないから歩いてゆこうとするのだが、三歩進むと、三歩戻って来る。こっちの方がグレートより短いのに冗長にすら感じる。ロベルト・シューマン、あなたはどこへ行きたいの?


外っ面は良い、大勝利を得たようだ。しかし内面はどうなんだろう。まだ、もやもやしているんじゃないか。あれこれ過去の大音楽家を真似してみて、葛藤して、無力感に苛まれ、それでも取り繕って……まあ、あくまで僕の個人的な感想なので、お前の勝手な勘違いだと言われたら、それはそれで甘んじて受け入れるけれども。よくわからないけど、小品だったり組曲だったり、自由な形式の音楽ではそんなことないのに、交響曲やソナタ、弦楽四重奏曲といった過去の巨匠たちが堅牢な構造で作曲して傑作を残しているジャンルは、もしかするとシューマンは妙に神経質になってしまうのかもしれない。なんとなくそんな気がする。
シューマンは後に振り返って、この曲から自分が病んでいるのを察知されるのではないかと不安になる、それでも終楽章を書いたときには少し自分らしさを取り戻したし、完成したときは随分良くなった、しかし暗い日々を思い出させる作品だと書いた。本人がそんな風に言うってことは、最終的に勝利した交響曲ということでめでたしめでたしなのかもしれない。20世紀に入ってからは低評価で不人気だったのだから「実は凄い曲」ということにして名誉を回復させておいた方が良いのかもしれない。いくら暗い日々だったからと言って、音楽まで暗いとは限らない。ただ、僕は暗いと思う。暗いというか、不健康というか、無理しちゃってるというか。最初に書いた通り、めっちゃ変な曲だと思う。
僕はこの曲の「苦悩に打ち克ち、最後には勝利する」ところが好きなのではなく、「なんとか勝利した気になって満足しているが、実際は全然勝利していない」ところが好きなのだ。シューマンはそこから一歩も動いていない、しかし羽ばたくことに成功した気になっていて、精神の自由を得たつもりになって、それで気を落ち着けている。そういうの、自分の人生に重ねてしまうよね。ちっとも上手くいかなくて苦しいけど、一応上手く行っているのだと自分をだまして心を安定させるのも必要だと思うし。執拗な繰り返しに固執するシューマンの態度を「粘り強い」とか「説得力がある」と評するのも読んだけど、無理してポジティブな言葉にする必要はないだろう、一体相手は誰だと思ってるんだ、あのシューマンだぞ! ネガティブで良いんだよ、ネガティブなのは悪いことじゃない。不器用で不格好なのも、無理して捻じ曲げて「賞賛の辞」に変えなくてもいいのに。それを愛してあげられるのならね。

シューマン:交響曲第2番ハ長調&第4番ニ短調ほか
セル(ジョージ)


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Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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