スヴャトスラフ・リヒテルとユージン・オーマンディ、共演の記録

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1958年、レニングラードでのオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏会。ソリストはリヒテル。画像掲載元:Archivogram

今年の夏、Twitterでちょっとしたクイズを出したら、思った以上に反応があり嬉しくなった。こういうことはめったにしないのだけど、リヒテルが初めてドヴォルザークのピアノ協奏曲を弾いたときの指揮者はオーマンディだと知って意外だったので、面白いなと思いクイズにしたのだ。


その後に自分で色々調べていたら、モンサンジョンの本にもそう書いてあった。前に読んだけど覚えていなかったか、あるいは、その時の自分には特別刺さる話題ではなかったのだろう。一度読んで全部頭に入る天才ではないので、何度も読んで、その度に色々と思うことがある、それもまた楽しい。

Sviatoslav Richter: Notebooks and Conversations
M. Bruno Monsaingeon


肝心のクイズの正解をツイートする際に、間違ってリヒテルとオーマンディがドヴォルザークのピアノ協奏曲を共演したのは1961年と書いてしまった。これは1960年の間違いで、こういうツメの甘さが自分でも悲しくなる。きっとブログの内容にも多々間違いがあると思うが、悪意はないのでマジで許してくださいね。

自分で始めた話題なので、リヒテルとオーマンディの共演について、少し詳しく書き残しておこうと思う。リヒテルとオーマンディが共演してドヴォルザークを演奏した1960年という年は、リヒテルの米国デビューの年だ。今まで「ソ連の伝説のピアニスト」として、西側の音楽ファンにとっては名声だけが轟いていたリヒテル。彼がアメリカに初登場した際には大きな話題となり、本人は緊張で上手くいかなかったと語るのに対して、ツアー自体は大盛り上がり、興行的には大成功だった。
1960年リヒテル米国デビューについては西側メディアの記事があるため、それなりに知られているところだろう。音楽評論家、山崎浩太郎さんのホームページで公開されている「ウィーン/60 第二十六章 リヒテル夢幻」を読めば、概要はつかめると思う。山崎さんご本人も、記事に関する膨大な出典を全て載せられないと断りを入れているが、例えばHiFi/Stereo Review誌の1960年10月号の特集は主なソースの一つと思われる。pdfで読めるので、見てみたい方はこちらをどうぞ。66-68ページ。


山崎さんの文章では割愛されているが、Stereo Review誌で書かれている通り、リヒテルは作家ボリス・パステルナークの葬儀でショパンの葬送行進曲を弾いている。二人は親交があり、パステルナークの妻はリヒテルの師ネイガウスの元恋人である。リヒテルは音楽以外のことは一切口をきかないという徹底ぶり。ここで下手をしたらその後の活躍はなかったかもしれないからね。

第二誕生: ボリース・パステルナーク詩集 1930-1931
ボリース パステルナーク (著), 工藤 正廣 (翻訳)


米国デビューのような英語ソースの話題はそれなりに見つかるだろうし、せっかくならあまり話題にならないものを書いておきたい。ということで、リヒテルとオーマンディがソ連で初めて共演した1958年の話をしよう。まずその前に、二人の共演歴を全て列挙する。オケは全てフィラデルフィア管。それ以外のオケで共演した記録はない。

①1958年5月29日、モスクワ音楽院大ホール、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第5番
②1958年6月4日、レニングラード・フィル大ホール、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第5番
③1960年10月21日、フィラデルフィア アカデミー・オブ・ミュージック、ドヴォルザーク:ピアノ協奏曲、ブラームス:ピアノ協奏曲第2番
④1965年5月9日、アナーバー ミシガン大学ヒル講堂、グリーグ:ピアノ協奏曲
⑤1970年1月29日、フィラデルフィア アカデミー・オブ・ミュージック、モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番&第22番
⑥1970年2月2日、フィラデルフィア アカデミー・オブ・ミュージック、モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番&第22番

①と②は1958年、フィラデルフィア管のソ連ツアーで共演したもの。このあと少し掘り下げる。③は先に挙げたリヒテルの米国デビュー。ドヴォルザークの他に、ブラームスのピアノ協奏曲第2番も演奏している。残念なことにどちらも録音は残っていない。④はミシガン大学の五月祭というイベントで共演したもの。伝統あるイベント(学園祭)で、フィラデルフィア管は何度もこのイベントで演奏している。⑤と⑥は1970年、録音も残っているが、これが最後のアメリカ訪問となる。同年9月に初来日してからリヒテルは日本が大好きになる。

①1958年5月29日、モスクワ音楽院大ホール、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第5番

②1958年6月4日、レニングラード・フィル大ホール、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第5番

⑤1970年1月29日、フィラデルフィア アカデミー・オブ・ミュージック、モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番&第22番

1958年、フィラデルフィア管弦楽団のソ連ツアー

山崎さんの記事に1955年のジュネーブでの米ソ首脳会談によって音楽家の派遣云々と書かれているが、1958年1月には米ソ間で「文化、技術、教育に関する米ソ協定」が締結され、いよいよ本格的に交流が進むぞという雰囲気が加速。実際に、政治家や農工業技術関連の人材交流、若者の交換留学などが行われ、文化交流も進んで行われた。モイセーエフ・バレエ団が訪米し、ギレリスやコーガンもアメリカでツアーを行った。アメリカ側からは、何度もソ連を訪れているレオポルド・ストコフスキーが訪問し、モスクワ放送響やレニングラード・フィルを指揮しており録音も残っている。ストコフスキーはクリンにあるチャイコフスキーの家に招かれて植樹もしており、「ここを訪れるのは念願でした」と感激したそうだ。他にもメトロポリタン歌劇場で活躍したメゾ・ソプラノ、ブランシェ・シーボムや、バリトンのレナード・ウォーレンも訪米。ウォーレンはロシア系移民の生まれである。様々な交流があった中で、1958年の最も熱狂を帯びた米ソの音楽交流はヴァン・クライバーンのチャイコフスキーコンクール優勝で間違いないだろう。山崎さんの記事でも触れられているが、優勝した直後のクライバーンは、自分に満点を付けた審査員リヒテルのコンサートを、感動のあまり涙を流しながら聴いた。そのコンサートの録音が↓

Sviatoslav Richter In The 1950s vol.1


フィラデルフィア管弦楽団のツアーも大いなる喜びをもって歓迎されたという。1958年6月3日のニューヨーク・タイムズ紙の記事から、いくつかエピソードを紹介したい。キエフ、モスクワ、レニングラードを訪問したフィラデルフィア管の団員たちの、ソ連の音楽家たちとの交流が報告されている。この年までコンサートマスターを務めたジェイコブ・クラクマルニックは、キエフでウクライナの奏者たちとカルテットを演奏。ドニエプル川で川下りをした奏者もいるそうだ。首席ホルン奏者のメイソン・ジョーンズはホテル滞在中、あるソ連を代表するホルン奏者が訪ねてきた話をしている。彼は楽器を持参しており、ジョーンズが演奏を聴きたいというと、ウォーミングアップもなしにショパンのワルツをいきなり吹いた。その演奏は軽快で柔軟だったが、音色は深みがないとジョーンズは評している。エルミタージュ美術館の図録をプレゼントされたそうだ。管楽器奏者たちが、アメリカでは管楽のアンサンブルが盛んだという話をすると「ソ連にはそのような団体はほとんどない」とソ連の奏者たちは驚いたという。あるアメリカのファゴット奏者はアラム・ハチャトゥリアンと会う機会を得た。なぜ木管の曲を書かないのかと質問すると、ハチャトゥリアンは「コントラファゴット奏者は子守歌を演奏できますか?」と返すと、アメリカ人奏者は「我々はできます」と答えたそうだ。多くのアメリカの奏者たちが、ソ連のオケの弦楽器奏者たちは非常に優れているが、管楽器奏者たちはそうでもないと感じたと報告されている。NYTの記者も、レニングラード・フィルの演奏を聴いたが、弦楽器は非常に均質でニュアンスも幅広いが、管楽器奏者たちはアメリカのオケのようにセクションで一体になって演奏するのではなく、アーティキュレーションも皆バラバラに吹いていると指摘している(ただし指揮はムラヴィンスキーではなかったとも付している)。この記者は、キエフの聴衆は自然体で温かい、モスクワの聴衆は圧倒的に真面目、レニングラードの聴衆は敏感で耳が肥えているとして記事を締めくくっている。

リヒテルとオーマンディの初共演

リヒテルはこのフィラデルフィア管のソ連ツアーで、モスクワとレニングラードの2公演に登場し、オーマンディの指揮でプロコフィエフのピアノ協奏曲第5番を演奏している。上記の①モスクワ公演も、②レニングラード公演も録音が残っており、上で紹介している通り。

まずは1958年5月30日のニューヨーク・タイムズ紙の記事、「リヒテルとオーマンディの共同凱旋:モスクワでソ連のピアニストがフィラデルフィア管弦楽団とソリストとして共演」と題したもの。公演翌日の新聞である。そのまま抜粋してみよう。

スヴャトスラフ・リヒテルがついに米国のオーケストラと共演できるのは、ムハンマドに山がやってくるようなものだ。ロシア人の間でソ連のピアニストの聖人として広く知られるリヒテル氏は、今夜モスクワ音楽院でユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団と共演した。彼らはプロコフィエフのピアノと管弦楽のための第5協奏曲を熱狂的に演奏した。1,500人以上の聴衆は、このイベントのために山を動かす価値があったと考えたようだ。

リヒテル氏は、米国にその芸術を持ち込むよう何度も招待されてきたが、様々な理由で一度も受けることができなかった。エミール・ギレリスや、米国を訪れた他のソ連の芸術家たちは皆リヒテルを称賛し、オーマンディ氏も今日、リヒテルのファンの合唱に加わった。指揮者もリヒテル氏に米国で演奏してもらいたいと考えているが、ソ連の文化省は、今後2シーズンはリヒテル氏の出演予定が確実に決まっているとだけ述べた。

西側にとっての損失

ピアノを弾くと神経質なエネルギーと優雅さを醸し出すリヒテル氏は、共産圏以外での演奏を省から予定されたことは一度もない。損失は西側だけである。ほとんどの外国の批評家は、リヒテル氏や他のソリストがソ連で必要なオーケストラの支援を受けていないと考えている。

そのためロシア人にとって、フィラデルフィアのリヒテル氏とのプログラムは、米国オーケストラによる5つのプログラムの中で最高のものだった。今夜の演奏後、紙に包まれたチューリップやその他の花がアーティストに降り注ぎ、オーマンディ氏は最終楽章の一部をアンコールすることに同意した。

しかし、熱狂的な聴衆はオーケストラ自体に多くの歓声を送った。オーマンディ氏はプログラムの最初にウィリアム・シューマンの「クレデンダム」を選んだ。ロシア人の耳には馴染みのない曲だが、オーケストラの実力を見せつけるものでもある。ドビュッシーの夜想曲2曲、「雲」と「祭り」では大きなブラボーが起こった。

それでもこれまでのフィラデルフィア管弦楽団のモスクワ公演で圧倒的に熱狂的な歓声が上がったのは、オーマンディ氏によるブラームスの第1交響曲の演奏だった。拍手と歓声は延々と続いた。指揮者はバッハの「アリオーソ」のみをアンコールとして提供したが、それでも聴衆は満足できなかった。

演奏者たちはステージを降り、後方の階段を下りてバスに向かった。それでも聴衆の4分の1ほどが拍手と歓声を上げていた。

リヒテルへの称賛と、ソ連の聴衆のフィラデルフィア管への熱狂が書かれている。もう一つ、TIME誌1958年6月16日号に評が載っているので、少し抜粋して紹介しよう。

オーケストラはこの曲を一度も演奏したことがなく、リヒテルはフィラデルフィアの音楽家たちと1時間のリハーサルを行っただけで演奏を開始した。しかし、オーケストラとソリストは驚くほどの一体感をもってこの曲を難なく演奏し、聴衆はそれをすぐに感じ取った。 「常に電気が行き来していました」と指揮者のユージン・オーマンディは語った。リヒテルはプロコフィエフの冗談めいたスコアに万華鏡のような変化を与え、協奏曲の叙情的なパッセージにおける豪華さやその迫力あるクライマックスの打楽器的効果への誘惑に抗っていた。「彼はまるで庭を散歩するように自由に演奏していました」とフィラデルフィアのコンサートマスター、ジェイコブ・クラクマルニックは畏敬の念を抱いた。

その他、技術の高さや手の大きさ、ピアニッシモにおけるベルベットのようなコントロールの妙技を絶賛している。演奏中の表情にも触れており、感情をむき出しにし、まれにミスタッチをすると痛みを受けたように顔をしかめる、とも。記事の最後には、指揮者オーマンディは彼を米国に呼びたいと思っているが、ロシアが自国最高のピアニストを世界に送り出す準備が整う兆しはまだ見られないと締めくくる。


アメリカ側の評を見たので、今度はソ連側はどうだろうと、頑張って探してみた。ロシア文学新聞(Литературная газета)の1958年5月31日の記事に、フィラデルフィア管のモスクワ公演の評があるのを発見。「モスクワのフィラデルフィア管弦楽団」と題した、1000ワードくらいあるそこそこ長い評だ。写真も付いていて、オーマンディとリヒテルが花束を持っている。しかも記事の著者を見ると、なんとドミトリー・カバレフスキーとある。これを見つけたときの僕の興奮を想像してほしい。そして、この記事の中でリヒテルが登場するのはその写真だけだったときの、僕の落胆も想像してほしい。いや、そんなに落胆はしていないけどね、内容は面白かったし。ということで、このブログ記事には写真だけ貼っておこうか……マジで、カバレフスキーのリヒテル演奏評、読みたかったなあ。


少しだけカバレフスキーの文章も載せておこう。フィラデルフィア管の来訪は我が国にとって注目すべき出来事だと語るカバレフスキー。映画「オーケストラの少女」やディズニーの「ファンタジア」で知られるオーケストラであると紹介し、今回の5つのプログラムではハイドン、ベートーヴェン。R・シュトラウス、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、コープランド、ガーシュウィン、W・シューマン、ハリス、クレストン、ケナンが含まれると。実はフィラデルフィア管サイドで1958年ソ連ツアーについて調べたけど、全公演記録みたいなのは見つからなかったのでありがたい。ということで文章を抜粋。

最初の2回のコンサートは大成功でした。モスクワの人々は感謝しながらも要求の厳しい聴衆ですが、オーケストラの統一された柔らかな響き、色彩豊かでダイナミックなパレットの豊かさを高く評価しました。

大成功は当然ながら、繊細で知的な音楽家であるユージン・オーマンディの手のおかげです。並外れた才能と卓越した技術を上手く組み合わせ、完全な自由さで容易くオーケストラを率いています。オーマンディはスコアなしで全てのプログラムを暗譜で指揮しています! 揺るぎない意思、深く考え抜かれた芸術的コンセプト。第1回コンサートのプログラムにはR・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」、ベートーヴェンの交響曲第7番、コープランドの「静かな都会」、ラヴェル編曲によるムソルグスキーの「展覧会の絵」が含まれていました。第2回コンサートではハイドンの交響曲第88番、プロコフィエフの交響曲第5番、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」とストラヴィンスキーの組曲「火の鳥」。

これだけのプログラムに精通している音楽家はごく稀であると、オーマンディについて言うことができます。彼は、作品のスタイル的には相反するような作品でも同じように成功しています。オーマンディは自身の個性を失うことなく、演奏した全ての曲について最も本質的なものを引き出します。

ハイドンの交響曲は素晴らしいユーモアと率直さをもって演奏されました。ベートーヴェンの音楽にはまた別の世界が響き渡っていました。有名な「アレグレット」の悲しげな行列は、嵐のような喜び、この交響曲の残りの部分の狂ったように陽気な生命力によって見事に影を落としていました。 「火の鳥」のロシア歌曲の性質、ストラヴィンスキーが才能に溢れ、ロシア音楽の古典という国民的伝統を大胆に発展させていた時期に作曲された音楽であることを完璧に明示しています。

R・シュトラウス、ムソルグスキー、ラヴェル、コープランド、ガーシュウィンの作品も素晴らしい演奏でした。しかし、おそらくこの2つのコンサートにおけるオーマンディの舞台芸術の頂点はプロコフィエフの交響曲第5番です。これは傑出した作曲家の最高の作品の一つであり、作者の意図を深く洞察して演奏されました。大祖国戦争中に書かれ、プロコフィエフ自身の言葉を借りれば「人間の精神の偉大さ」についての作品として構想されたこの交響曲は、多くの点で雰囲気や性格が、さらに言えばその民族的・英雄的な側面において歌劇「戦争と平和」に似ています。そして、オーマンディが安堵の表情を浮かべて明らかにしたのは交響曲の音楽の中にあるまさにこの民族的・英雄的で壮大な一節であり、私はこの素晴らしい作品の演奏で今までに聞いたことがなかったと認めます。

絶賛しているプロコフィエフの交響曲第5番はプロコフィエフ未亡人も聴いたそうで、前年の1957年にオーマンディ指揮フィラデルフィア管が録音した同曲のLP盤を「今まで最高の録音」とこちらも絶賛して、オーマンディにサインを貰いに行ったというエピソードもある。1958年のソ連ツアーの録音も残っているので、興味のある方はぜひ。カバレフスキーの文章の残りは省略するが、アメリカ作品を紹介してくれたことに感謝するとし、彼が個人的に最も興味深かったのはアンコールだったと語る。コープランドとガーシュウィン、そしてバーバーの弦楽のためのアダージョ、それぞれ魅力的だったと。先に挙げた米ソ文化交流の例に触れ、「才能豊かな同胞ヴァン・クライバーン」の成功や、ギレリス、コーガン、ロストロポーヴィチ、モイセーエフ・バレエ団の成功と同様に、フィラデルフィア管の成功に満足した、芸術文化の交流で平和に貢献できることを願うと書いている。

これはこれで面白いけれど、なんとかソ連側からリヒテルに言及したものはないかと、ソビエト文化紙(Советская культура)の1958年6月3日の記事、「才能あるチーム、才能ある指揮者」と題した評を見てみた。これもそれなりのボリュームがあり、しかも書いたのがアレクサンドル・ガウク。こちらでも、モスクワのフィラデルフィア管公演を絶賛している。似たような内容の繰り返しになるのでかなり省くけれども、ガウクもやはりオーケストラの一体感を褒めている。アメリカの奏者たちが感じたソ連のオケの特徴で管楽器アンサンブルの一体感の無さというのがあったが、その通りなんだろう。ただガウクは、フィラデルフィア管の弦楽器が一体感を求めるあまり、実験的な試行やリスクを取ることを恐れているとも指摘している。また、特筆すべきはプロコフィエフの交響曲第5番の演奏だと、カバレフスキーと同様に高評価だ。チャイコフスキーの交響曲第5番も絶賛。ショスタコーヴィチの交響曲第5番については、3楽章は褒めつつ、1楽章と4楽章はショスタコーヴィチらしさが足りない、4楽章は速すぎるという指摘も。他にもこの記事のおかげでわかったのは、30日間で2回移動、全12公演を行ったということ、ラヴェルの曲はダフニスとクロエだったということ。リヒテルについての言及もあった。あったのだが、たった一言「我らの傑出したピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルによるプロコフィエフの協奏曲第5番の演奏に多大な感謝の意を表したいと思います」で終了。うーん、無念! というか、珍しい米ソ交流の機会だから、お互いに相手のことを話すのが普通か。アメリカ側にとっては伝説のピアニストだから、アメリカ側からの言及の方が多いのも当然かもしれない。

しかしこれでは終われないので、他に1958年フィラデルフィア管ソ連ツアーのリヒテルに関する記述がないものか、頑張って探してみた。アメリカのオーディオ誌High Fidelityの1958年10月号に、Paul Moorが書いた「スヴャトスラフ・リヒテル 隔離された天才」というエッセイがあり、そこで言及されていたので抜粋しよう。フィラデルフィア管がソ連公演を終え、モスクワからストックホルムに移動した際に聞いた話のようだ。リヒテルについてインタビューされている。

「彼は本当に愛すべき人です」と、コンサートマスターのジェイコブ・クラクマルニックは、フィラデルフィア管弦楽団とプロコフィエフの協奏曲第5番をレニングラードで演奏した後、ストックホルムでそう語った。ユージン・オーマンディはこう付け加えた。「彼は公演後、舞台の上でも下でも、オーケストラのメンバー全員と握手しました。彼は私たちと一緒にモスクワまで列車に乗り、列車が出発し始めると『降りたくない。これだけのことをした後で、あなたたちと離れるのはつらい!』と言いました。私は文化大臣のミハイロフ氏と副大臣の一人と話し、フィラデルフィア管弦楽団のサポートでスヴャトスラフ・リヒテルをアメリカに連れて行きたい、と伝えました。またその旨の手紙も書きました。これが今朝ストックホルムに来る前にモスクワ空港で彼らと話し合った最後のことでしたが、少なくとも彼らは、リヒテルが来るべきだという私の意見に同意してくれたようでした」

いかにも人たらしのリヒテルらしいエピソードだ。ソ連当局はオーマンディに良い返事をしてくれたものの、実際その後2年はリヒテル訪米は実現していない。

1958年以降の共演について

1960年のリヒテル米国デビューについては、きっと様々なところで話題もあるだろうから、このブログで触れるのはまたの機会にしよう。とはいえ、カーネギーホール公演の話題は多いとしても、オーマンディとの共演の話題はあまり多くないかもしれない。曲がドヴォルザークの協奏曲というのも、あまり一般的なクラシック音楽ファンが沸かないところだろう。そういう曲を選ぶところがリヒテルらしさではあるのだが。

ナウム・マールというロシアの作家・文芸評論家が書いた「50のインタビュー」(50 интервью)という書籍に、関連する記述があったので載せておこう。1961年1月頃だろうか、秋のリヒテル米国デビュー(とその後のカナダ公演)についてインタビューしている。

スクリャービンやドヴォルザークは好きですか? 彼らの作品もあなたのプログラムに含まれていましたか?

「はい、もちろん、大成功を収めました。ところでモントリオールではコンサートの後、ある女性が私に声をかけてきました。彼女の手には、私が演奏したばかりのスクリャービンのソナタ第5番の楽譜がありました。遠く離れたモントリオールで、スクリャービンの筆跡をこの目で見ることができたのは、ほとんど奇跡でした……ドヴォルザークの協奏曲はフィラデルフィアでのイベントとなりました。これまでこの協奏曲が演奏されたことのない都市にとって、また優れた指揮者オーマンディ率いる素晴らしいオーケストラにとって、そして最後に私自身にとって、これが初演となりました。フィラデルフィアはドヴォルザークのピアノ協奏曲が大好きになったそうです。」

フィラデルフィアがレパートリーにしたかどうかはともかく、リヒテルはこれ以降ドヴォルザークのピアノ協奏曲をレパートリーにしており、1961年にコンドラシン指揮モスクワ・フィルとモスクワやソチで演奏し、ロンドンでもコンドラシン指揮ロンドン響と演奏している。1966年には5月にモスクワで再びコンドラシン指揮モスクワ・フィルと、6月にはプラハでスメターチェク指揮プラハ響と演奏。1976年6月3,4日には、ウラディミール・モシェンスキーという指揮者とミンスクで演奏。モシェンスキーはベラルーシの指揮者だそうだ。この2週間後、1976年6月18-21日にカルロス・クライバーとレコーディングに臨んでいる。これがあまり上手く行かなかったことは以前Twitterでも書いた通り。一応ツイートを貼っておく。


⑤と⑥の1970年の演奏は、リヒテルはあまり良く思っていなかったようだ。演奏の出来不出来が最後の訪米になったことと関係あるかは不明だが。これについてはリヒテルは晩年(1991年12月)になって録音を聴き直している。モンサンジョンの本の手記から抜粋しよう。

オーマンディとのモーツァルトのト長調協奏曲の録音はそこまで悪くないとわかったので、リリースするのを許可することにした。私は今はもう考えが変わったのだ。これをいくらか難しく聴いていた。もちろん、一緒に聴いている客人たちは絶賛し合っていた(特にヴィルサラーゼ)、ただ一人ミーチャを除いて。彼は非常に正しく「ある種の粉っぽさ」がある解釈について比較していた。この日に限っては理想的な良さからは程遠く、フィラデルフィア管にも責任がある。

ちなみに、手記にはこんな記述があるのも見つけた。1993年5月、リヒテルはオーマンディ指揮フィラデルフィア管とフィリップ・アントルモンが録音したガーシュウィンのピアノ協奏曲ヘ調を聴いて、感想を書いている。

ひどい! この協奏曲をこんな風に演奏できるなんて、あり得るのだろうか? 速い、速い、混乱しているし、リズム感もない……ピアニスト(アントルモン)だけでなく、オーマンディにも驚きだ、落胆した。気分が悪くなった。

と、晩年のリヒテルはオーマンディにがっかりしている。なぜこんなことを言っているのかというと、リヒテルは自分がガーシュウィンの協奏曲を弾くからである。1993年5月30日、シュヴェツィンゲン音楽祭でエッシェンバッハ指揮シュトゥットガルト放送響と同曲を演奏、リヒテルにとって同曲の初披露となった。というか、ガーシュウィン自体、公開で演奏するのが初である。晩年になってガーシュウィンを勉強したいと思うのもリヒテルらしいし、まあソ連が崩壊したのもあるのだろうが、録音もあるので、特にテンポとリズムに着目して聴いてみていただきたい。このブログ記事も最後に「両者はその音楽性を称え合っていた」みたいな感じで終わりたかったけど、なんか残念な感じになってしまった。まあでも、それがリアルということで……(笑) オーマンディに落胆したということは、それだけ期待していたということであり、オーマンディの音楽を信頼し高く評価していたのだ。だからリヒテルも自身の演奏前に聴こうとして選んだのだろう。いつでも正直なのがリヒテルの良いところだ。

Gerschwin: Piano Concerto in F Major
Eugene Ormandy & Philippe Entremont

Saint-Saens / Gershwin (Sviatoslav Richter, Concert 1993)


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Author: funapee(Twitter)
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