バッハ 小フーガ ト短調:美しい旋律、或いは小受容史

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バッハ フーガ ト短調 BWV578

LOVE 2000というと大体の人はhitomiを思い浮かべると思うが、安室奈美恵にも同名の曲がある。作詞作編曲は小室哲哉。安室ちゃんの曲の方は小フーガト短調が引用されている。有名なバッハのフーガだ。そういえば今年は『J. S. バッハのオルガン音楽 全曲解説』というイギリスの音楽学者/オルガン奏者のピーター・ウィリアムズの本の翻訳が出たので、解説等はそれを読むと良いのではないかと思う。まあネット上にも沢山ありますね。

J. S. バッハのオルガン音楽 全曲解説
Peter Williams (著), 廣野 嗣雄 (監修, 翻訳), 馬淵 久夫 (監修, 翻訳)


別にJ-POPの話をしようと思っていたのではないし、そもそも小フーガト短調の話をするつもりでもなかった。つい先日、新バッハ協会(Neue Bachgesellschaft)の1993年の年鑑に掲載のRainer Kaiserによる小論「パルシャウのロンドンにおけるバッハ演奏、1750年頃のイギリスにおけるバッハ振興について」(Palschaus Bach-Spiel in London, Zur Bach-Pflege in England um 1750)を読み、ちょっとバッハのフーガについて考えを巡らせていたのである。18世紀に活躍したイギリスのオルガン奏者、チャールズ・バーニー(1726-1814)が1779年に書いた記述によると、Johann Gottfried Wilhelm Palschau(1741-1815)という人物が9歳の神童としてロンドンでチェンバロ演奏会を開き、そこで自作やバッハの二重フーガなどを非常に正確に弾いたという。当時のヨーロッパでこれほど上手く弾く人物はいなかった、などと報告している。この二重フーガというのがどの曲を指すかは不明だが、平均律クラヴィーア曲集第2巻かもしれない、と。また、ダラム大聖堂の図書館で発見された写本には作者不明の楽譜と共にBWV905, 911, 913, 914, 915が載っており、これは聖職者Richard Fawcett(1714-1782)が入手したものである可能性があるため、英国にバッハ作品を広めたのはJ.C.バッハが1762年に渡英したのよりももっと前である可能性がある、という内容である。

上で挙げたBWV905は「幻想曲とフーガ ニ短調」、BWV911, 913, 914, 915はどれもトッカータで(BWV 910-916は通称「7つのトッカータ」という)、このトッカータのほとんどにフーガも含まれている。知名度はそれほど高くないかもしれないが、このトッカータ集はリヒテルが特に晩年になって愛奏しているので、リヒテルのファンには割とおなじみの曲ではある。それらが18世紀半ばのロンドンで演奏されたのかどうかはわからないが、最近バッハの曲でブログ書いてなかったし、せっかくなら「7つのトッカータ」についてブログ書こうかなと思ったのだ。
そう思ってリヒテルの録音を聴いていたのだけど、いまいち気分が乗ってこない。ブログでもTwitterでも見てもらえたらわかると思うけど、僕はリヒテルの大ファンであるが、そういうときだってある。最近、それこそリヒテルの兄弟弟子でもあるネイガウス門下のオルガン奏者、セルゲイ・ディズール(1924-2000)の弾くバッハの傑作「フーガの技法」を聴いてしまった所為かもしれない。バッハのフーガは多かれど、「フーガの技法」はその究極、本家本元と言っても良い。もちろん「7つのトッカータ」を「フーガの技法」と比べたら良くないのはわかっているが、最近聴いて打ちひしがれていたところなので、まあ仕方ない。


だからと言って「フーガの技法」についてブログ書くのはなかなか大変そうなので、ちょっとパス。「フーガの技法」に対抗できるバッハの他のフーガ作品なんてあるだろうか……と考えていて、小フーガト短調を思い出したのだ。かつて山本直純は、小澤征爾に「お前は世界に出て、日本人によるクラシックを成し遂げろ。 俺は日本に残って、お前が帰って来た時に指揮できるよう、クラシックの土壌を整える」と言ったそうだ。きっと小フーガト短調(CV:宮野真守)も、フーガの技法(CV:豊永利行)に対して「お前は高みを目指して、フーガの頂点を成し遂げろ。俺は麓に残って、フーガの裾野を広げる」と言っているに違いない。実際に小フーガト短調は、真面目なところでは学校の音楽鑑賞教材の定番として、ふざけたところではブリトラのハゲの歌として、圧倒的な勢いでフーガの裾野を広げていくのである。きっとその影ではトッカータとフーガニ短調が、7つのトッカータに対して「俺が裾野を広げる」と言いながら鼻から牛乳を出していたのだろう。

山本直純と小澤征爾 (朝日新書)
柴田克彦 (著)


「あなたの髪の毛ありますか」だの「チャラリー鼻から牛乳」だの書いていると敬虔なバッハ信者に怒られそうだ、怒らないでください、こう見えて僕はBach Cantatasのサイトに名を刻む数少ない日本人なんです、日本クラシック音楽ブログ界のバッハ・エヴァンゲリストなんです、こちらの記事を参照してください! それはともかく、大げさな言い方をすれば「小フーガト短調の歌詞」と言っても良い、バッハの弟子シューブラーの自作フーガ“Lass mich gehn, denn dort kommt meine Mutter her”も紹介しておこう。


自作と言っても、小フーガト短調と全く同じ主題である。バッハが課題として与えたのか、詳しいことはよくわかっていないが、ピーター・ウィリアムズは「このテーマがあまりに印象的だったからシューブラーは自作のフーガを作った」と書いている。シューブラーも頭から離れず、勝手に自作フーガにしたという可能性も大いにあるだろう。詳しくはRussell Stinsonの著書「J.S.バッハ、彼の気高き楽器に於いて。彼のオルガン作品についてエッセイ集」(J. S. Bach at His Royal Instrument: Essays on His Organ Works)を参照してほしい。元は4声だがシューブラーのものは2声であり、フーガのタイトルも主題の音にちょうど歌詞のように当てはまる。日本語訳して歌うなら、そうだな、「行かせーて、ママが来るからー♪」ってとこか。うーん、あまり真面目な雰囲気ではないな。もっと真面目なバッハの話を読みたい人は過去記事を貼っておくのでそちらを読んでくださいね。

小フーガト短調BWV578はなぜこれほどまでに有名になったのだろう。この曲の歴史に詳しくないので僕もよくわからないから、ちょっと調べてみよう。古くはバッハの兄であるヨハン・クリストフ(1671-1721)が編纂した『アンドレアス・バッハ本』という当時の鍵盤作品名曲集のようなものがあり、そこに小フーガト短調が収録されている。17世紀後半~18世紀初頭でも、すでに「名曲」と認められていたのである。
18世紀に小フーガト短調がどんな扱いだったのかは、いまいちよくわからない。メンデルスゾーンがバッハの復興に力を入れ、マタイ受難曲を蘇演したのが1829年。バッハ再興が盛り上がるまでの間、おそらくはバッハ擁護者のオルガン奏者たちが演奏し続けていたのだと推測される。先ほども挙げたRussell Stinsonの別の著書「メンデルスゾーンからブラームスまでのバッハのオルガン作品の受容」(The Reception of Bach’s Organ Works from Mendelssohn to Brahms)によると、メンデルスゾーンは幼い頃から師のツェルターを通してバッハのオルガン作品に触れたそうで、メンデルスゾーンが使った対位法のノートにはツェルターが書き込んだと思われるバッハの小フーガト短調とほぼ同じ主題が載っているそうだ。それ以上詳しいことはわからないし、シューマンやブラームスらが小フーガト短調をどう扱っていたかもわからなかったが、彼らもメンデルスゾーン同様にバッハを愛していたのは間違いないし、確証はないが小フーガト短調を教材にしてフーガを学んだ可能性も大いに考えられる。この頃には既に学習に適したフーガ作品という認識があっただろう。
少し脱線するが、ブラームスの弟子であるFlorence Mayの著書「ブラームスの人生」(The Life of Johannes Brahms)によれば、ブラームスはピアノのレッスンに平均律やイギリス組曲をよく用いたそうだ。先のStinsonの著書によれば、ブラームスは1867年11月にバッハの「田園とジーグ」と題した作品をリサイタルで弾いている。このような曲名の作品は存在しないけれど、おそらくパストラーレBWV590の第1楽章(前奏曲)と第4楽章(ジーグ)だと考えられる。第1楽章はこの曲唯一のヘ長調であり、第4楽章ジーグは実質フーガである。つまり「前奏曲とフーガ」として「田園とジーグ」と題した曲を演奏したのだ。


ピアニストたちではなく、オルガニストたちにとっては普通のレパートリーだったのか、ドイツ国内ではどうか、他の国ではどうか。これもわからない。オルガニストでもありバッハ研究も行ったセザール・フランクは、小フーガト短調をどのように評価していのだろうか。パリ音楽院の生徒たちの前で披露する機会はあったのだろうか。この曲を演奏したという証拠は見つからなかったが、Stinsonによればフランクがバッハのオルガン作品を作曲の手本にしたことや、演奏会でバッハのオルガン作品を弾いたこと、またイギリスではエルガーがそれに近い役割を果たしたことなどが指摘されていた。
個人的には、Stinsonがフランクのオルガンの大作である「交響的大曲 嬰ヘ短調 作品17」の最後のフーガで、小フーガト短調からの影響が見られると書いているのが興味深かった。楽譜を貼っておくので見てみてほしい。


うーん、そうなのか……?「フランクは小フーガト短調のパッセージ全体に渡って流れる長いトリルに魅力を感じたのだ」とも書かれていた。なおペータース版ではトリルはオプションだそうだ。しかしまあ、小フーガト短調のこの長いトリルが、この曲の大きな魅力であることは間違いない。


20世紀の話は色んなところで目にすることができる。ストコフスキーがオーケストラ編曲をしたのが1930年。50年代になると自身の指揮による録音も出てくる。ストコフスキーの編曲と同じ頃、1933年には日本における「小フーガト短調」受容の最も大きな資料とも言える、堀辰雄の小説『美しい村』が発表される。『美しい村 或は小遁走曲』という副題もある。この曲が登場する場面を引用しておこう。軽井沢の話である。

或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘の並んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞えて来た。私はその隣のまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾けていた。バッハのト短調の遁走曲らしかった。あの一つの旋律が繰り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それを聴いているうちに、私はまるで魔にでも憑かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、この頃の私の小説を考え悩んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。

軽井沢の公使館から漏れ聞こえる小フーガト短調を掘が聴いたのは実話だそうだ。ただ単にこの曲が登場するというだけでなく、実際に堀に執筆のきっかけを与えた曲でもあり、またフーガという形式が小説の形式にも影響しているという意味で非常に大きな関わりを持つ。
この頃の日本でも小フーガト短調はそれなりに知られた曲だったのだろうか。堀の『美しい村』と同じ1933年に出版された横山喜之編著『バッハ研究』では、当時の日本の楽界におけるバッハのピアノ演奏は盛大の正反対で貧弱そのもの、外国人教師の一部だけが真面目に教えている、日本のピアニストはベートーヴェンとショパンに偏っていると苦言を呈している(詳しくは齋藤桂著『1933年を聴く:戦前日本の音風景』を参照)。お稽古の曲としてはある程度定番だったのかもしれない。チェコスロヴァキア公使館からバッハが聴こえてくるという状況も、まあそういうものだろうと納得できる話だ。
20世紀後半からは様々なポピュラー音楽にも引用され、冒頭で挙げた安室ちゃんの曲の他にも、X JAPANのRose of Pain、エキセントリック・オペラの「愛のフーガ」、CORNELIUSの2010など枚挙にいとまがない。洋楽だって探せば山程あるだろう。また本家クラシック音楽の音楽家たちにとってもオルガンだけでなく様々な編曲を通して、フーガの裾野を広げる役割を今もなお果たし続けている……という感じで、簡単な「小フーガト短調 受容史」のような調べ学習の発表を終わりたいと思う。

いつもこのブログで、マイナーな曲ではなくて超有名曲について書くときは、通り一遍の解説ではなく自分にしか書けないような内容を心がけているが、ぶっちゃけこの曲に関しては、特に個人的な思い入れもないので、がんばって色々調べてみたというわけ。この曲について思うのはただ一つ、良いメロディだなということだけだ。フーガとしての出来の良さと、主題の美しいメロディと、どちらが名曲として世に残ることに寄与したかというと、僕は後者なのではないかと思ってしまうが、どうかしら。まあ今回もある意味、自分しか書かないような内容にはなったと思うのでいいんだけどね……いや、だってLOVE 2000って言ったらhitomiだろ!めっちゃいい曲だからね、愛はどこからやってくるのでしょう、って。LOVE 2000の何が良いか。決まってるだろ。サビの美しい旋律だよ。

LOVE 2000
hitomi

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)
堀 辰雄


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Author: funapee(Twitter)
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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