ベートーヴェン 交響曲第1番:花が咲くように、星が光るように

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ベートーヴェン 交響曲第1番 ハ長調 作品21


「ベートーヴェンが書いた最高傑作であり、彼が世にもたらした悪の中では最少のもの」と、交響曲第1番を評した人物がいる。アレクサンドル・ウリビシェフ(1794-1858)という19世紀の著述家だ。ウリビシェフはモーツァルトの崇拝者だった。であれば、まだハイドンやモーツァルトの影響が色濃いベートーヴェンの交響曲第1番をそのように言うのも納得だ。


僕もモーツァルトとベートーヴェンだったらモーツァルトの方が好き、と人にきかれたら答えるけど、このブログのカテゴリ欄を見てもらえばおわかりの通り、実は僕が最も多く楽曲紹介記事を書いている作曲家がベートーヴェンである。やはり好きなんだろうな。と言いつつも、2020年4月にヴァイオリン協奏曲について書いて以来、5年も書いていなかった。だいぶご無沙汰だ。交響曲は2016年に第2番、2013年に第7番、2011年に第3番「英雄」、2010年に第6番「田園」、2009年に第5番「運命」について書いている。昔の記事は内容が薄く、今ならもう少し詳しく書けそうだけど、しかたない。2016年には「中国とベートーヴェン 激動の20世紀に」、2020年には「誰がために第九は鳴る~ウラディミール・デルマン指揮ミラノRAI響 ベートーヴェン第九公演(1993)について」というのも書いているので、興味のある方はどうぞ。


2,3,5,6,7番は書いたので、残るは1,4,8,9番。9番を書くのは勇気が要るし、タイミングも重要。8番は大好きだけど何書いたら良いかネタが思い浮かばない。4番はなおさら浮かばない。1番は、最近(というほどでもないけど)ますます好きになってきたので、何か書けそうな気がする。9つの交響曲の中で最初に生み出された交響曲第1番が持つ魅力を、僕もようやく自分の言葉で伝えられるようになったんじゃないかと思って。 ベートーヴェンの交響曲は有名だから楽曲解説ならそこら中で読めるでしょう、ここでは堅苦しくない話が良い。


ベートーヴェンが交響曲第1番を完成させたのは1799年から1800年頃と言われている。1800年4月2日、ウィーンのブルク劇場、ベートーヴェンが初主催する演奏会で、自身の指揮によって初演された。世紀末であり新世紀の始まりを迎える時期に最初の交響曲を世に送り出すなんて、出来過ぎな話だ。当時ベートーヴェンは29歳、初めての交響曲を書くにしては意外と若くない印象だけども、狙ってこのタイミングにしたのかしら……知らないけど、「伝統」と「革新」の両面を持つ交響曲第1番を、18世紀と19世紀の境目に発表できたというのは、もはや「持ってる」としか言いようがない。楽聖は伊達じゃない。


第2番で伝統路線の終着点を迎え、第3番から革新の道を切り拓いていくベートーヴェン。第1番はまだ伝統的な古典派交響曲の線路の上で、少し路線変更を考えているというところだろう。ベルリオーズも『ベートーヴェンの交響曲 批判的研究』で「明らかにモーツァルトの思想の影響を受けている」とか「スケルツォは(中略)この作品の中で唯一、真に斬新な楽章」とか、「これは見事に創られた音楽で、明快で機敏だが、強い個性に欠け、冷たく、娯楽的性質を持つ終楽章のロンドを例としてときに幾分狭量でもある。一言で言えば、これはベートーヴェンではない。私たちはまさにこれから彼に出会うのだ」と書いている。スケルツォとは、実質スケルツォである3楽章のメヌエットのことを指す。


ベートーヴェンだがベートーヴェンではない。ほとんどハイドンやモーツァルトのようだが、絶対にハイドンやモーツァルトがやらないような攻めた技も見られる。とかくベートーヴェンは濃厚で濃密で、熱く、強く、モアアンドモアな音楽と見なされる分、こういう中途半端な曲が低く評価されるのもわかる。ただ一つの絶対的な正解のみを信ずるならば仕方ないが、多様性の時代、様々な演奏を聴くのであれば二面性のある音楽はいっそう面白いものだ。つまり、この音楽は「ベートーヴェンではない」という考え方が色濃く出るのか、それとも「ベートーヴェンである」ところを強調する演奏なのか、あるいは部分部分で変えたり変えなかったりするのか、あれこれ無限に楽しめる、オトクな交響曲なのである。

第1楽章の冒頭。画像掲載元:Wikipedia

例えば1楽章の冒頭だけでも色々ある。作品の始まり、いきなり不協和音からというのは極めて革新的だと言える。とはいえ、ヴィヴァルディの冬だってそうだし、バッハのカンタータ第54番「いざ、罪に抗すべし」だって、冒頭から不協和音から始まる。ただそれらには冬の厳しさや、抗うことという意味があってそうしているが、いわゆる絶対音楽で、交響曲でやったのが革新的な点だ。びっくりさせるけど、すぐ和音で解決させる。伝統と革新の両方が在る。
この冒頭4小節、区切るとしたらどう区切るだろうか。1/2/3&4の三部構成かしら。そういう演奏(録音)が多いと思うし、それは「ベートーヴェンである」音楽だと思う(※あくまで個人の見解です)。でも中には、アバドがモーツァルトの国のオーケストラと演奏したものや、ブリュッヘンが18世紀オーケストラ(なんて都合の良い名前でしょう!)と演奏したものは、1&2/3&4の二部構成に聴こえるし、そちらの方が「ベートーヴェンではない」音楽に聴こえる。まさしく18世紀の音楽。不思議だ。いや、不思議も何も、当然のことかな?


この直後に続く序奏も、軽やかなものもあれば重厚なものもある。もちろん前者の方がハイドンやモーツァルト寄りと言えるだろうが、個人的には軽重よりも、序奏を序奏として扱っているかが気になる。ガーディナーは序奏がその次の本編のためにあるなと感じさせるし、同じ古楽オケでもホグウッドは序奏と本編の関係はあまりなさそうだ。カイルベルトもそう、序奏とその後で全く別の話のよう。僕は序奏が本編の前触れとして奏でられるとやっぱり伝統的なものを感じるし、序奏はどっしりやってびっくりさせてから、スラスラと本編が奏でられると、そういうギャップは新時代的なのかな、なんて思う。これが正しいという保証はないし、実際はAかBかの二択で語れるほど単純な話ではないだろうけどね。全く種類の違う美しさを聴き取ることができる。


2楽章はアンダンテの緩徐楽章だが実質メヌエットに近いし、3楽章はメヌエットだが実質スケルツォである。その辺の表記は過渡期ならではの半端さかもしれないが、革新的なのは間違いない。特に3楽章はベルリオーズも言うように、真に斬新な音楽である。ハイドンやモーツァルトのような宮廷舞踊は交響曲には不要だ、という強い意志を感じる。機敏なリズムで、メロディーやハーモニーを曖昧にし、めくるめく世界の果てへと聴衆を連れ去るような音楽。強い。後にブルックナーが宇宙や神の世界に連れていくようになる、交響曲のスケルツォ、その始まりがここだ。これは誰が何と言おうと「ベートーヴェンである」。さすがにここを「ベートーヴェンではない」音楽にする猛者はいないだろうなと、クリップス盤を聴きながら、いや、もしや、と思う。モーツァルトを得意とする指揮者の演奏だと、ふと宮廷の影もちらつくこともある。


4楽章の入りも独特だ。ここでもびっくりさせたい、聴衆をあっと言わせたいと思ったのだろうか。楽章全体としては別に革新的ではない。12年前に作曲されたモーツァルトのジュピターの終楽章の方がよほど革新的だ。交響曲の最後の楽章とはそれまでの全ての楽章の集大成として鳴り響くものだ、というジュピター的な信念をここでは超えることもなく、むしろ楽しく愉快な運動的フィナーレの伝統に則っている。だがこの曲の導入はやはりクセになる。ベートーヴェンも模索しただろう。どうすれば最終的に最も熱狂するのか、最後に大爆発が起こるためにはその前に何が必要なのかを、ベートーヴェンは交響曲第1番からその先の番号でも、ずっと考え続けたのではないかと、そんな風に思うこともある。エネルギーを溜めて溜めて、そして解き放つ――交響曲はそうすべき音楽であって、そのためにどんな技が必要なのか。それを考えていた痕跡がこの冒頭部なのだろう。


この曲を好きになってきた理由の一つとして自分で思うのは、多分、年を取ってきたことだろう。音楽の趣味が成熟して色んな曲を楽しめるようになったのは、この曲に限った話ではないのだけど、なんというか、最近ますます花を鑑賞するが好きになってきたのと似たような好みの変化だと思われる。先日もネモフィラ見て大満足し、そろそろバラ園も行きたいと思っているし、若い頃には興味なかった類の美しさに惹かれるようになってきた。十年以上前にベートーヴェンの幽霊トリオを傑作の森の可憐な花なんて言ってブログ書いたけども、交響曲第1番も「交響曲の森の入り口に咲く純粋で高潔な花」だろう。僕は花を愛でるような気持ちでこの曲を好いている。


夏目漱石に『夢十夜』という十篇からなる短編小説がある。好きな小説の一つだ。その第一夜は、ある女が死ぬ間際に、自分に百年待つよう頼んできて、その頼みを聞いて墓の横で延々と待ち続けるという夢の話である。何度となく日が昇り沈みするのを見て、もう自分は女に騙されたのではないかと思い始めたとき、墓の下から一輪の真白な百合が伸びてくる。この短編の最後の部分を引用しよう。

自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。 

僕はこの描写が非常に気に入っている。美しい百合の白い花びらに口づけし、その直後に空を見上げると、星が一つ光っている。実に良い。まあ、それが今回の交響曲とどう関係あるのかというと、別に大した話ではないのだが……ここで描かれる二つの美の鮮やかな対比が、この交響曲の持つ魅力に似ているなと思ったのだ。一方で地面から伸びる可憐な花、思わず口づけできてしまう距離の花の美しさと、もう一方は遠く届かぬところで輝く星、夜明けに光る星の美しさ。漱石の、珍しく幻想的で、それでいてダイナミックに視点を動かす、卓越した表現に似たものを、ベートーヴェンの交響曲第1番の演奏解釈でも味わえるだろう。一つは歴史と伝統ある古典派音楽の、それこそ当時のベートーヴェンにとって手の届く場所にあった美しさ。また一つは、未来のベートーヴェンを予見する革新的な音楽の、新時代の夜明けを告げるがごとく、後の世まで永遠に輝き続ける星のような美しさ。西暦1800年の楽都で誕生した、古くて新しい、なんて魅力的な音楽だろう。百年はもう来ていたんだな。

Beethoven: Symphonies Nos. 1 & 3 “Eroica” (Remastered 2023)

夢十夜・草枕 (集英社文庫) 文庫
夏目 漱石 (著)


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都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more

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