サラサーテ ボレロ 作品30
「アルファベットより先に音符を読んだ」というカッコいい逸話の残る、神童ヴァイオリニストだったパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)。このブログでは2012年にサラサーテの代表作の一つ「カルメン幻想曲」について書いている。それ以来の登場だから12年ぶりだ。干支が一回りしてしまった。
上述の逸話は作家フリオ・アルタディルが書いたものなので、十分「盛っている」可能性があるが、軍楽隊の隊長の子として生まれ、8歳でコンサートを行い、10歳でスペイン女王の前で演奏、女王とナバラ州から奨学金を得て12歳でパリ音楽院へ、翌年には音楽院のヴァイオリン科で一等賞を獲得、さらにソルフェージュと和声でも一等賞を取り15歳で演奏旅行へ。神童なのは本当だ。
サラサーテと同時代、ドイツでも同じく神童ヴァイオリニストとして有名になった音楽家にヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)がいる。ヨアヒムはベートーヴェンの協奏曲の復権に大いに貢献し、ブラームスの協奏曲初演ではソリストを務めた奏者だ。サラサーテも、サン=サーンスをはじめブルッフやラロが彼のために曲を書き、多くの初演をした一方で、ブラームスの協奏曲は演奏を拒否したという。いわく、オーボエにしか適切な旋律が無いから、と。これは辛辣だ。↓のブルッフの曲の記事でも、サラサーテとヨアヒムの話題を出しているので、興味のある方はぜひ。
ヨアヒム自身も多少作曲はしたそうだが、あまり評判は良くなく、ほとんど残っていない。サラサーテの方はというと、自分の演奏するヴァイオリン作品を多く残しており、「カルメン幻想曲」の他に「スペイン舞曲集」や「ツィゴイネルワイゼン」など今でも有名な作品が幾つかある。どうも、クラシック音楽ファンを長くやっていると、玄人ファンほどサラサーテ作品よりもブラームスの協奏曲を高く評価しているように思われるのだが、どうだろう……。まあ個々人の評価はともかく、サラサーテ自身はブラームスの協奏曲をそんな風に評価していたと知ると、ちょっと面白い。もちろんブラームスの協奏曲にはメロディ以外の魅力も詰まっている、しかしサラサーテほどの卓越したメロディーメーカーに言われてはぐうの音も出ないだろう。
少し話が逸れるが、コナン・ドイルの小説「赤毛連盟」で、探偵シャーロック・ホームズがサラサーテの演奏会を聴きに行くという場面がある。ホームズは、
「プログラムではドイツの曲が多いようだった。ぼくはイタリアやフランスの曲よりドイツの曲のほうが好みなんだ。ドイツの曲は内省的だ。そしてぼくはいま、内省したい。さあ、いこう!」(石田文子訳)
と語る。原文は“I observe that there is a good deal of German music on the programme, which is rather more to my taste than Italian or French. It is introspective, and I want to introspect. Come along!”である。数年前にTwitterでも話題になったようで、まとめてあった。
このツイートまとめでは、ドイツものを好むなんてホームズにしては捻くれていないという解釈に始まり、小説が出た1891年8月に近い頃のサラサーテのレパートリーや、当時のイタリア・フランス曲とはどのようなものかなど、音楽に詳しい人たちが色々挙げている。面白い。
面白いけど、音楽史的な検討ばかりで文学的な検討がなかったので、ホームズファンの一人として、僕の個人的な見解を挙げておこう。この発言が出る場面はちょうど、ホームズが依頼人のウィルソンから事件の詳細を聞き、まさに推理の真っ最中といったところ。脳細胞はバチバチに働いていて、この後サラサーテの演奏会に行こうと、ワトスンを誘う際に言うセリフである。だから外に向けて発散するようなものではなく、自分の心の、自分の脳の、内側に向き合いたいというタイミングなのである。僕が意訳するとしたら、
「プログラムはドイツものが多かったはずだ、なかなか私の好みだね、イタリアやフランスのものよりも。ドイツものは内省的でね、私も内省したいものだ。行こう!」
という感じだろうか。そもそも、この捻くれ英国紳士の「ドイツ音楽が好きだよ、内省的で」を文字通り受け取るのもどうかと思うので、皮肉もあると思われる。
街を歩きながら推理し、サラサーテの演奏会が始まる頃にはもう、ホームズの脳内では全てのピースが揃い、ワトスンが驚くくらい幸せそうにサラサーテの演奏に浸る。演奏会が終わると、そこから犯人逮捕劇が始まるのだ。まあ、残念ながらサラサーテは最も内省に適しているであろうドイツの作曲家のソナタなど弾いてはくれなかっただろうけどね、これは僕の推理である。今日から僕のことはホームズと呼んでくれたまえ。
シャーロック・ホームズの冒険 (角川文庫) 文庫
コナン・ドイル (著), えすと えむ (イラスト), 石田 文子 (翻訳)
冗談はともかく、サラサーテの作品は内省的な音楽というより、もっと外に向かうもの、熱い情熱を解き放つようなものだ。先に挙げた有名なサラサーテ作品ももちろんそうだし、あまり有名でない数多くの小品たちからも、そのサラサーテの特徴は十分伝わってくる。むしろ、どれを聴いても彼の美点は光り輝いているので、凄まじい楽才の持ち主だったことがよくわかるはずだ。
今回挙げた「ボレロ」を聴いてみてほしい。ほとんどの音楽ファンはラヴェルの作品しか思い浮かばない「ボレロ」というタイトル、3拍子のスペイン舞曲であるという点以外、サラサーテとラヴェルとで全く共通点はない。まず魅了するのは弾けるリズム、高音から低音まで自在に巡るヴァイオリンの高度な技術の披露もありながら、何より優雅に歌うメロディが美しい。このメロディの重音がたまらないのだ。伴奏のピアノとの駆け引きが楽しい場面もあり、張り詰めた緊張感あるソロを響かす場面もあり、常に美しい旋律を携えて進むダンスは飽きることを知らない。終わり方も絶妙だ。
というか、この終わり方が絶妙だと思わせられるのは、僕がラヴェルのボレロを念頭に置いてしまうからかもしれない。ラヴェル以外のボレロってほぼ知らないからね。8月にはラヴェルをテーマにした映画「ボレロ 永遠の旋律」が公開されるそうだが、この映画タイトルからも伝わるように、ボレロはもはやラヴェルに属する単語のように扱われている。ラヴェルすなわちボレロ、は言い過ぎだろうが、ボレロすなわちラヴェルというのは、かなり一般的な認識だろう。それかお洋服のボレロね。そういえばラヴェルのボレロも昔ブログに書いたんだった。これも2012年に書いたものだ。何書いたかすっかり忘れていたけど、読み返したら割と面白かったわ(笑) こちらもぜひ。
ラヴェル以外にも色々な人がボレロを書いているけど、スペインの作曲家によるボレロとして聴けるものの中では、サラサーテが一番有名人物かもしれない。しかしサラサーテのボレロにしたって、この記事に貼っているNAXOS盤しか録音はない。惜しいことだ。もっと増えてほしい。作曲年代は不明だが、楽譜は1885年にジムロック社から出版されている。ジャック・ティボーの師であり、パリ音楽院の教授だったマルタン・ピエール・マルシックに献呈されている。
ラヴェルの伝記映画のタイトルは素敵だと思う。確かにラヴェルのボレロのあのメロディはものすごく頭に残る「永遠の旋律」だと言って良い。多分、サラサーテのボレロが「永遠の旋律」と謳われることは今後もないだろう。しかし、別に誰に謳われなくとも、世の中の大多数に知られなくとも、サラサーテの音楽が珠玉の旋律の宝庫であることは間違いない。他の小品も聴いてみてほしい。シューベルトやチャイコフスキーを思わせるような美しい旋律も多々現れるから、好きになる人もきっといるはずだ。もっともっと、色んな知られざる旋律、謳われずとも歌われる旋律たちに耳を傾けたいものだ。
「私の名前はシャーロック・ホームズ。他の人が知らないことを知るのが私の仕事です」(「青い柘榴石」より)
Sarasate: Violin and Piano Music, Vol. 3
Tianwa Yang
都内在住のクラシック音楽ファンです。コーヒーとお酒が好きな二児の父。趣味は音源収集とコンサートに行くこと、ときどきピアノ、シンセサイザー、ドラム演奏、作曲・編曲など。詳しくは→more